会津文化を問いなおす!
徳一からの司馬遼太郎
会津がなぜ時代の中枢になっていたか⁉
これからの会津の位置付け役割はどうなっていくのか。
日本は民族と言語、信仰が二千年以上続いている誇りを地域に置き換えて掘り下げたいです!!
磐梯町は文化的な町長さんをいただいていて幸せですね。
福島県立博物館館長の赤坂さんからの言葉です。
ビビッときました。
五十嵐源市町長のようになりたい!と思いました。
首長は、歴史と文化を語り地域の世界観を植え付け誇りを養う。
工場誘致は経済状況で定着できないことが多い。
工場誘致も必要だが、教育と文化、足元にある文化歴史を感じ、暮らしている方が素敵に思うまちづくりが観光につながるんだ‼️と民友の五阿弥社長さん
喜多方の文化力を紹介すると
古墳文化、北方藤樹学、自由民権運動、喜多方美術倶楽部、プリンス倶楽部、セピロマ会
などが挙げられますね。
今朝の民友新聞からご紹介
「会津の文化を問い直す 徳一(とくいつ)から司馬遼太郎へ」
会津に徳一が来たことで花開いた仏教文化や、徳一が連れてきた技術者集団が東北の漆を求めていたという説など、歴史や文化を見直す新たな視点での分析が議論されました。
徳一が各地に残した遺産をつないで浮かび上がる「仏都会津」は、奈良や京都に負けない歴史として後世に伝えていくべきです。
福島県立博物館の赤坂館長は、会津が文化力を発信できる土地であることが確認できた。「自分たちの足元に埋もれている分厚い歴史の堆積を見つけ、掘り起こして育てられた土地だけが、成熟に向かって動きだせるのではないか」と話し、会津文化を見直しつつ、伝承していくことが重要との事。
【各コーディネーターから一言】
■ 県立博物館の赤坂館長は
「会津の文化力には感動」
知れば知るほど会津の文化力には感動させられてきた。徳一が会津を選んだ理由として、文化を支える土壌があったと思う。
その後も会津農書や藤樹学が発達したことも偶然ではなく、城下にとどまらず会津全域に歴史的に分厚い文化の土壌があったことがわかる。今後もまちづくりで文化芸術の拠点として整備されれば、5〜10年で実を結び、花開くだろうと考えている。
■ 磐梯町の五十嵐源市町長は
「歴史を正しく残す」
歴史を正しく残して後世に伝えていくことが大切。「徳一」に関連した本を新たに発刊する予定だが、自分の思いだけで書いたものではなく、しっかりと学者に検証してもらわないといけない。私の夢は、会津と奈良や京都のつながりを考える機会を設けることだ。
会津の歴史を縄文の時代からたどり、みんなで学んでいこう。会津17市町村の点と点を線で結び、奈良や京都に負けない仏都会津にしたい。
■ 会津学研究会代表の菅家博昭さんは
「聞き書きで継承」
聞き書きを続けていると、古い風景が見えてくる。奥会津では幕末・明治期に漆の木が切られ、桐の木に変わっていったという。また、葦名氏の織田信長への贈り物に使われるなど、中世の漆は重要な意味を持ち、会津において一つのキーワードになるのではないか。
発掘調査と同様に、地域の記憶もまだまだ可能だ。身近な人の暮らしを聞き書きで掘り起こし、文化を継承していきたい。
■ 福島民友新聞社の五阿弥宏安社長は
「教育と文化が大切」
徳一は教育現場でどれだけ教えられているのか。自治体のまちづくりに工場誘致が大切なことはわかるが、最も大切なことは教育と文化ではななかろうか。その土地の人が自分のまちの歴史、文化を感じられるようにすることが、会津ではできると考える。
日本遺産に会津17市町村で申請した「仏都会津」が次回以降登録されるように、会津サポーターとして応援していきたい。
まちづくりの同志と明け方まで徹底討論!!