喜多方ラーメンよもやま話
喜多方ラーメンの歴史、なぜ、喜多方がラーメンで有名になったか?
前口上
喜多方ラーメンは今や日本中の誰でも知っている、といっても大げさではありません。大震災後にあちこちで開かれた福島復興市、福島産品の即売会で、喜多方ラーメンが一番人気だったことは、私自身いくつものイベントに参加して実感しました。思えば遠くに、いや大層なブランドになってきたもんだというのが、今の私の感慨です。私自身、喜多方ラーメンが何と言っても日本一だと思っていますが、それにしても人口数万人(ブレイク当時は4万人、今は合併して5万人余)の山あいの町の産物が大都市の札幌や博多に伍していることなど、考えてみれば不思議なことです。では、どうしてそうなったのか。せっかくスペースをいただいたので、喜多方ラーメン史を早分かり的に紹介してみようと思い立ちました。題して「喜多方ラーメンよもやま話」。しばしのお付き合いをお願いします。
喜多方と若松の微妙な関係
申し遅れましたが、私は昭和26年12月、福島県は会津の北部にある喜多方市で生まれました。会津藩主の坐す若松(会津若松市、会津の人は単に若松といいます)の北の方(約20キロ)、ということで「北方(きたかた)」と呼ばれていたのですが、喜びの多い方というめでたい文字をあてて「喜多方」にしたのだと小学校で習ったものです。近在の物産が集まり、酒や味噌、醤油の醸造、桐箪笥や漆器などを造る、町人の町として江戸時代から栄えたようです。もちろん、会津では殿様やお侍がいる若松が飛び抜けてエラい町で、喜多方はその他大勢の中で、坂下(ばんげ、会津坂下町)と2番手を争うといった所だったようです。戦後しばらくは春日八郎を生んだ街ということで坂下の方が有名だったかもしれません。
ここで言いたいのは、喜多方には若松に対する競争心というか、なにくそという気概がいつもあったということです。若松では清貧を重視する朱子学が基本だったのに対し、喜多方は実学を重んじ商売や蓄財も認める中江藤樹の陽明学派(藤樹学)が盛んだったのです。自由民権運動の福島事件(喜多方事件とも言います)の現場となったり、いずれにせよ反骨というか自主独立というか、そんな風土があるようです。
旧制中学も、若松の会津中は明治23年創立で、こちらは藩校日新館に淵源を持つ気位の高い学校。それに対し喜多方中は県議会に請願を続けて大正7年にやっと開校にこぎつけたという新参者で、30年近い差がついております。昭和初期、両中学のバンカラ生徒が若松の鶴ヶ城跡で決闘する顛末を描いた鈴木清順監督、高橋英樹主演の映画「けんかえれじい」(1966年、鈴木隆の同名小説が原作)をご存知でしょうか。この作品で劣勢を逆転して会津中の悪どもをこてんぱんにやっつけたのが、高橋演じる喜多方中の一統でしたので、今でも喜多方の人はこの作品が大好きなのです。かくいう私も喜多方中の後進、喜多方高校の出身であります。
「支那そば取っか?」「うん、取んべ」
さて、ようやくラーメンの話ですが、私の小さい頃からラーメンは生活にとても馴染んでおりました。「昼は支那そば取っか?」と母親が言うと、「うん、取んべ」とみんなが賛同する、という感じでした。当時は「ラーメン」などというハイカラな言葉はなく「支那そば」と言っていたのです。実家が薬屋をやっていて、店員さんともども昼食にはよく出前を取っていました。両親に連れられて店に食べに行くこともありました。今思えば、後で紹介するいわゆる御三家といわれる店プラス一、二軒というのが選択肢でした。「喜多方ラーメン」と言われるようになった今でも、基本的には麺もタレも当時と変わっていません。小さいころから、ラーメンの味というのはこういうものだと刷り込まれ、それが美味しいとか、他と違うとか、そういうことは知らずにおりました。
喜多方で生まれ育って京都で仕事をしていた叔父が、何年かに一度帰省することがありました。商売柄、海外や国内の見聞の広い人物でしたが、必ずラーメンを食べに行きました。「喜多方の支那そばは日本一だ。どこに行ってもそう宣伝している」と商売人らしい話をしていた記憶があります。まだ昭和30年代のことです。当時で思い出すのは、そう遠くない母親の実家(耶麻郡猪苗代町)や祖母の実家(会津若松市)でラーメンを取ってもらった時、(失礼ながら)あまりおいしくないなあと思ったものでした。やはり京都の叔父さんの言うとおりだと、子供心に思ったものです。
手打ち縮麺のルーツは
要するに、喜多方のラーメンが相当前から美味しいものになっていたのですが、まずは、なぜ、そういうことになったのかという大問題の説明をしなければなりません。
喜多方ラーメンの歴史やブレイクした経緯についての数少ない文献の一つが喜多方市役所商工観光課の職員(最後は産業部長で退職)として尽力した富山昭次さんの著書『木偶の坊仕事人 蔵のまち喜多方老麺物語『(2006年刊)と続編『続・木偶の坊仕事人 蔵のまち喜多方新老麺物語』(2007年刊)です。富山さんは昭和50年代後半から平成にかけて蔵の町とラーメンの宣伝に体当たりで奔走した熱血漢です。ラーメンがメディアに取り上げられて徐々に有名になっていくさまや、今では伝説となった創業者の皆さんのエピソードが満載で、喜多方ラーメン勃興期の同時代証言といった記録です。ただ、いかにも喜多方ラーメンの話らしく、縮れてぬらりくらりと同じ話が行ったり来たりするのが玉に瑕という、なんと申しましょうか、とても楽しい本です。自費出版で入手困難なので、この機会に大いに中身を紹介したいのです(以下、両書から引用した場合の出典表記は『木偶の坊』とさせていただきます)。市販されている本では『デジャヴュな街・喜多方』(2004年、地域メディア研究所刊)の中の一章「ヒサと新吾の夫婦小法師」でも坂内食堂を中心とした喜多方ラーメン史を読むことができます。
まず喜多方ラーメンのルーツです。『木偶の坊』によると、第一はJR喜多方駅近くにある源来軒(げんらいけん)の藩欽星(ばん・きんせい)さん。中国浙江省の生まれで両親と死別したため大正14年に19歳で日本で働こうと長崎に来て、東京・横浜で土木作業員をし、昭和2年に喜多方のすぐ北にある加納鉱山(銅山です)で働いていた叔父を頼ってきたそうです。ところが叔父も仕事を世話できず、相談した結果、中華麺を打って屋台で売り歩いて生計をたてることにしたのだそうです。この時、中華麺を思い出して見よう見まねで作ったのが「平ったくて、太い麺で、縮れ麺」「喜多方ラーメン、即ち、『手打ち支那そば』のルーツといってもいい」ものだったと富山さんは書いています。藩さんは「延ばし加減と太さは、一番口当たりのよい太さを考えてのこと」で、「縮れは、つゆをうまく絡み合う具合を工夫して、つゆとラーメンがほどよい絡みによってうまいラーメンを食べてもらうことにあったのです」「打ち方が、竹棒を股に挟んで体重をかけて延ばしたので、平ったくなってしまった。それを切るので太くなってしまった」などの説明をしたということです。私も、縮れ麺の特徴は、麺をズズーっとすするとスープも一緒に口に入ってくるので美味しく感じるのだと思っていたので、まさにそういう狙いだったのですね。
そういえば、昔は喜多方のラーメンは箸だけでレンゲは使いませんでした。全国展開した札幌ラーメンがレンゲで汁をすすりながら食べるという方式を広めたのだと思います。今では喜多方でも、ほとんどの店でレンゲを出しています。レンゲに慣れている観光客が店で「レンゲください」と求めるようになったことがきっかけになったのかもしれません。
なお、『デジャヴュ…』は源来軒の藩さんについて「麺やスープづくりを秘伝とすることなく積極的に公開し、多くの弟子たちが現在の喜多方ラーメンを支えている。昭和61(1986)年に喜多方市の産業経済功労者として表彰された」と記しています。確かに、その麺が今に至る喜多方ラーメンの基本になっていることは間違いありません。ちなみに、喜多方市観光協会は喜多方ラーメンについて「平打ち熟成多加水麺と言い、麺が太く平たく(幅3ミリ程度)、縮れているのが特徴で、こしが強い」と紹介しています。
機械打ちの縮れ麺ができた
さて、以上が多くの人が語る定説で、私も聞いておりました。しかし『木偶の坊』は「もう一つのルーツ」を紹介しています。終戦直後から製麺業を営む蓮沼季吉さんの話です。医師を志して東京で勉強していた蓮沼さんが家庭の事情でやむなく帰郷したそうですが、その際にラーメンを打つ機械を持ち帰ったのだそうです。たまたま浅草に遊びに行ったところ、鍋などに小麦粉を入れて並んでいる行列があって、何かと思ったらラーメンを機械で打っていたのだそうです。原料を持ち込み、加工賃を払ってラーメンを打って貰っているのです。終戦直後にはそんなことがあったのですね。これを見た蓮沼さんは、「そうだ、俺は喜多方で機械打ちラーメン製造をやる」と決めて、機械の売り元を聞き出して買って帰ったそうです。そこでお手本にしたのが、その時にはすでに屋台をやめて喜多方駅近くの今の場所に開店していた源来軒の手打ちラーメンだったと思われます。「平ったくて、太い麺までは機械で打てたが、……試行錯誤して縮れ麺になるよう機械を改良して、現在のラーメンにした」そうで、「これが『手打ち風ラーメンのルーツ』」というのが富山さんの説明です。
「喜多方ラーメンの独特の味と製法は、これまた蓮沼さんの工場で働いていた方達が製麺所を開業したので、守ることができました」という流れになります。その一人が坂内食堂などに麺を供給している曽我製麺所の創業者、曽我忠英さんでした。確かに、藩さんの源来軒のように手打ちだけでは多くの需要は満たせません。機械打ちによる「手打ち風」の大量生産が「喜多方の支那そば」の普及に大いに寄与したことは間違いありません。
「まこと食堂」と「坂内食堂」
『木偶の坊』は、喜多方で代表的な二軒の店の起源も紹介しています。
まず醤油味の代表である「満古登(まこと)食堂」です。初代の佐藤ウメさんは、最初は麻雀屋を営み、その後は下宿屋とうどん店をやり、下宿した若い女の子が東京から帰ったときに「おばちゃん、東京では支那そばが流行っていた。やってみたら」と言われたのがきっかけだそうです。「ラーメンから醤油から研究に研究」を重ねたそうです。喜多方産の醤油をベースに、煮干と豚骨でダシをとる支那そばが生まれました(ラーメン開始は戦後と思われますが詳しくは不明です)。この味が今の喜多方の醤油ラーメンの基本になったといわれています。
もう一軒が塩味ラーメンの「坂内(ばんない)食堂」です。「創業は昭和三三年五月、新吾さんが三六歳、妻ヒサさん二六歳の時で、市役所の西側の現在のところ、……二人はこの年に結婚したので新婚生活の新居でもあった」とのことです。ラーメンの値段は四十円、朝十時に開店し「電電公社の夜勤の方あるいは映画のナイトショーの帰りの客等、それもお得意さんが食べに来るので、閉店するわけにはいかず翌朝の三時か四時と営業時間を延ばしたそうです」という。
『デジャヴュ…』によると、終戦直後に引き揚げて来た長島ハルさんが、ラーメン店「上海食堂」を開きました。「(旧満州)当時の家業はクリーニング店で、近くに駐留する喜多方市出身の兵士らが遊びに来る度に、ふるまい、よろこばれた」ものだそうです。母親の好物だった上海料理をベースにした塩味のラーメンでした。後に坂内食堂を開く坂内新吾さんは終戦後、上海食堂に務めて修行を積み、独立後、上海食堂仕込みの塩味ラーメンで売り出したのだそうです。ダシは豚骨が基本で隠し味に少し醤油が少し、自家製チャーシューをたっぷり載せるのが基本です。
その坂内で長年修行した斎藤さんが2012年7月にふれあい通り(中心の目抜き通りの名です)に「香福」(こうふく)という店を開いたことが、地元ではちょっとした話題になっていました。8月に帰省した際に訪ねたら、なかなか美味しく、繁盛もしているようです。坂内出身者が開店した店には「一平」が、また、まことで修行した人が開いた「阿部食堂」などもあって、それぞれ頑張っています。
というような経緯もあって「まこと食堂、坂内食堂、源来軒」が地元で「御三家」といわれています。ルーツである源来軒はラーメン専門店ではなくて中華料理でもあるので別格扱いとして、「まこと、坂内」が「二横綱」と言われたりもします。ただ、最近は新しい店や「河京」(後で触れます)など多くの店が頑張っていて、群雄割拠といった風になっています。
「蔵のまち観光」がきっかけ
さて、次に第二の大問題です。主に喜多方市の地元や知る人ぞ知る人たちだけが享受していた美味しい喜多方の支那そばが、いかにして全国的な評判を得ることになったかということです。
もちろん、見る人によって見解の相違はあるかもしれませんが、市の観光行政の当事者の話は貴重なので、『木偶の坊』をもとに話を進めます。
もともと喜多方の観光といえば新宮熊野神社の「長床」(平安時代造営の吹き抜けの神殿)や、鎌倉時代造営の願成寺(会津大仏という阿弥陀仏が本尊)、あるいは川前という所のヘラブナ釣りぐらいしかなかったのですが、昭和40年代後半から「蔵」が注目されるようになりました。喜多方には店蔵、酒蔵、座敷蔵など、土蔵や煉瓦造りの蔵が何千もあったのですが、それを取り壊して駐車場や道路にするという話が持ち上がったときに、地元の金田写真館のご当主である金田実さんが保存運動に立ち上がり、四季折々に撮影した約500枚で写真展を開いたのがきっかけでした。写真展は喜多方での昭和47年を皮切りに、会津若松や東京も巡回し「蔵のまち喜多方」が脚光を浴び始めます。
地元紙の片隅に写真展の記事を見たNHK郡山放送局のディレクター、須磨章さんが、金田さんを訪ねて行きます。話すほどに喜多方の蔵の素晴らしさに魅せられ、昭和48年には福島ローカルで15分の番組を、昭和50年夏には「新日本紀行」で蔵と人々をテーマにした「蔵ずまいの町 福島県・喜多方市」を放送しました。さすがにNHKの看板番組の影響力は大きく、「蔵のまち喜多方」が多くのメディアで取り上げられるようになったのです。蔵をめぐる話は須磨さん自身の著書『蔵の夢』(1996年)『日本一の蔵めぐり』(2008年)に詳しいので関心の向きはどうぞ。須磨さんは今はNHKエンタープライズのシニア・エグゼクティブ・プロデューサーで世界遺産プロジェクト事務局長。喜多方の蔵について番組を3つ、本を2冊も書いておられる喜多方の大恩人であります。
市が一業種を応援していいの?
喜多方の蔵が注目され、それまでになく観光客が来るようになってからが商工観光課の富山さんの出番です。担当した昭和57年ごろ、蔵の観光で来る人は増えていたのですが、「見せてくれる蔵も八軒くらいですから、蔵の観光は二時間くらいあれば十分」だったそうです。それを一分一秒でも滞在時間を長くしようと思案していたのだそうです。そして翌昭和58年、県の観光連盟の仲介で日本交通公社の雑誌『るるぶ』で観光宣伝を仕掛けることになり、ならば、とラーメンの紹介をすることを思い至ったそうです。当時、県の職員が市に来たときに、昼食時に何を食べたいかと聞くと、「ラーメン(支那そば)」と答える人が多かったからというのです。すでに喜多方ラーメンの美味しさは県庁でも鳴り響いていたのです。富山さん自身も、醤油味と塩味のラーメンを交互に食べていたそうで、蔵を見に来る喜多方の観光で「三十分位は滞留時間が延びる」と思ったのだというのです。いずれも市役所近くの「まこと」(醤油味)と「坂内」(塩味)のことだと思われます。
『るるぶ』の昭和58年7月号に記事が出ると、市には問い合わせが殺到しました。それから富山さんは市内のラーメン屋、製麺所を徹底的に調べ、喜多方独特の製法などを聞いたそうです。ちなみに「新日本紀行」が放送された昭和50年の観光客数は年間5万人だったのが、58年には20万人になったといいます。
「蔵のまち」で小ブレイクした喜多方観光ですが、ラーメン効果もじわじわでてきました。さまざまな媒体の取材も増えたようです。富山さんは昭和60年7月にNHK「おはようジャーナル」で「ラーメンの香りただよう蔵のまち」が15分間放送された影響が大きかったと書いています。放送後すぐに全国から電話が入ったそうですが、「そんな小さなまちにどうして(そんなに美味しいラーメン屋がたくさんあるの?)」というのが多かったそうです。
富山さんはラーメンを食べに来る観光バスのために市役所の駐車場を提供することを考えました。最初は2、3台だったのが30台も駐車するようになり、市の担当課からも職員からも、市民からも怒られたそうです。なんで市がラーメン店のため、一業種のためにサービスしなければならないのか、というわけです。それはそれで、理にかなった批判ではあります。かなりの軋轢があったと思いますが、富山さんはめげませんでした。職員の駐車場を別な場所に5箇所も設置することで、なんとか収まったといいます。
蔵のまち喜多方・老麺会
昭和61年、62年とさまざまなメディアの取材も増え、このころから札幌、博多と並ぶ日本の三大ラーメンと呼ばれるようになってきました。市や商工会議所、坂内食堂など主要店が音頭をとってラーメン店40軒(当時の市内60店の3分の2)、製麺5社が加盟した「蔵のまち喜多方・老麺会」を創設したのが昭和62年3月でした。会津若松で「会津ラーメン会」の設立の動きがあると知った富山さんら関係者が大急ぎで動き、先手を打って設立したそうです。ここでも若松への対抗意識は強烈なものでした。老麺会の最初の仕事は加盟店を紹介するラーメンマップの作成でしたが、これが大好評で注文が相次ぎ、最初6万部だったのが、さらに6万部、4万部と増刷を繰り返したとのことです。なお、このマップは今も更新を続けていて、いつでもダウンロードできます。同会のサイトをご覧ください。 ちなみに昭和64(1993)年に、喜多方への観光客数は100万人を突破しました。昨年、つまり平成23年は160万人だそうです。
その間、いろいろなことがありました。例えば『るるぶ』掲載の前年に全国ラーメン党会長の林家木久蔵さん(今は木久翁さん)がレポーターとして出演したNHK仙台の番組「東北の麺」で、喜多方はほんの少ししか出なかったそうですが、取材した坂内食堂との縁が出き、以来、木久蔵さんは大の喜多方ラーメン(坂内ラーメン)ファンになったそうです。日本各地やニューヨークで開店し(今はすべて閉店の由)、現在通販で売っている木久蔵ラーメンも喜多方産ということです。木久蔵さんはあちこちで宣伝塔になってくださいました。そういえば、私が取材でニューヨークに行ったのはたった一度ですが、たまたま木久蔵さんの店が開店したばかりでした。特派員の先輩記者が面白い店ができたといって案内してくれ、一緒にラーメンを食べたことがありました。平成2年か3年のことです。
私自身は当時、地元の人に喜多方ラーメンが大ブレイクした理由について、宮田輝さんのNHK「ふるさとの歌祭り」説を聞いた記憶があります。喜多方での番組収録の際に宮田さんが「ここのラーメンは(「日本一」と言ったという説も)美味しい」と紹介し、それがかなり効き目があったというのです。残念ながら確認できていませんし、富山さんの本でも触れてないので風説かもしれません。
話が前後しますが、昭和59年から千葉県船橋市の御滝中学校が会津の修学旅行の一環でグループごとの少人数に分かれて蔵のまち見学を始めました。実はそのとき、私もたまたま帰省しており、一つの班を自分の実家、冠木薬店の蔵(実は店蔵や座敷蔵、塀蔵、厠蔵などがあるのです)を案内してあげたら、みなさんが作文を寄せてくれ、中には「わざわざ帰省して案内してくれてありがたかったです」などという嬉しい誤解もあって感激した記憶があります。その中学生たちも昼食は当然ラーメンだったようです。富山さんの本では、修学旅行の少人数の班行動のおかげで、喜多方のラーメン屋に入れるようになったのはいいのですが、一杯を二人から四人で注文し、何軒もハシゴしたという、なかなかすばしこいことをする生徒もあったようです。
余談ですが、震災直後の平成23年4月に猪苗代湖畔に開店した「河京ラーメン館猪苗代店」の売りである「ラーメン食べ放題」は、半分の量の「ハーフラーメン」を何杯でもおかわりできる方式をとっています。一回の食事で醤油、塩、味噌、あるいはネギやチャーシューなど、各種ラーメンを食べることができるという工夫は、その時の修学旅行生のアイデアに似ていますね。ちなみに「株式会社 河京」は昭和31年の創業、喜多方に本店がある創意工夫に富む元気な会社で、社長の佐藤富次郎さんは商工会議所副会頭を務めて街を引っ張ってくれています。
全国展開チェーンの「麺食」
さて、喜多方ラーメンが全国区になるにあたって「株式会社 麺食」を創業した中原明さんの存在は大きなものでした。昭和62年4月に東京・新橋の第一ホテル脇のJRガード下に坂内食堂の協力で「くら」(しばらくして「坂内」の名に)を出店、その後、「小法師(こぼし)」「坂内」の名で全国展開しているフランチャイズチェーンです(現在は59店、うち都内が41店)。麺は初期は坂内食堂に卸している曽我製麺からの毎日直送、そのうち曽我製麺が東京工場を作って供給という具合、チャーシューは各店での自家製という仕組みで、東京にいながら喜多方の坂内風ラーメンを食べられるのが売りの店です。
喜多方市には「きたかた大使」というのがあって、出身者というだけであまり役に立たない私のような者や、「蔵のまち」紹介で喜多方に貢献している須磨さんのような人が属していますが、中原さんも大使の一人です。それが縁で何回か話を伺うことができました。まさに立志伝中の人で面白いのです。日大獣医学科に入学したもののまもなく中退、読売新聞の配達をして認められ店を持たされそうになった19歳の頃に辞めて転職し、千葉市幕張近くで蕎麦屋を始めたのだそうです。その後昭和56年に国鉄に入り、民営化に向けた余剰人員活用のためのサンフーズという関連会社の常務となり、蒲田駅構内の立ち食いそば屋「麺亭」を任されていたそうです。そのときの大仕事がガード下でのラーメン店だったのです。
中原さんはJR東日本発足の昭和62年4月に向け、ガード下で商売をする準備にかかっていましたが、単なる駅そばやうどんの店では面白くないと思案していたそうです。たまたま東京・大阪間の機内で近くのご婦人たちが「喜多方のラーメンはおいしい」という話をしているのを聞き、「これはいけるかもしれない」と、実際に喜多方を訪れたそうです。
そこからが中原さんらしいのですが、ある店でラーメン修行をさせてくれと頼んだところ、断られて曽我製麺を紹介してくれたのだそうです。曽我忠英社長は快く引き受け、自分の家に泊め、修行先として坂内食堂を紹介したそうです。頑固ものの坂内さんのことですから、いきさつはいろいろあったようですが、ついに修行することを認められ、さらには信頼されるようになり、その後の曽我さんと3人の連携による事業の基礎が築かれたのだそうです。中原さんはもともと蕎麦職人だったので、ラーメンについても飲み込みが早かったようです。(この部分は中原さんの話に富山さんの『木偶の坊』の記述を加味して構成しました。この「中原さんの坂内修行」は喜多方ラーメン史の中で伝説に近い話になっております)。中原さんは喜多方の観光にも力を入れていて、何度か引用している『デジャヴュ…』という本も、この中原さんの企画、肝煎りでできた観光案内を兼ねた喜多方紹介本です。
名物「朝ラー」、そして・・
よもやま話らしく、喜多方名物「朝ラー」を紹介しようと思います。要するに、朝からラーメンを食べるということが、喜多方ではごく普通に行われているということです。それでは、なぜ朝からラーメン屋が空いているのか。喜多方市観光協会のウェブサイトによると、平成23年11月現在で「朝ラー」を供する店は6店あるとの由。喜多方で「朝ラー」が始まった理由については、「市内の3交替制の工場の人たちが夜勤明けに立ち寄るため」「朝早く農作業に出た農家の人が一仕事終えて食べに来た」「冬、出稼ぎから夜行列車で帰ってきた子どもを暖めるために家に帰る前にラーメン屋に立ち寄ったから」の三説を紹介しております。私が地元で聞いたのでは、市役所の職員やなじみの客が早朝野球をした後、仕事に行く前に食べるため、店主に頼んで開けてもらっていたのがきっかけという説もありました。
シーズンになると、有名な店では昼は1時間待ちの行列です。私は帰省した際、ラーメンを食べたいときは朝7時半か8時には坂内やまことに行っておりました。最初は観光客を避けて地元の人だけが利用していたようです。それが、平成17年にJRの協力で会津の観光キャンペーンが実施された際に「喜多方の朝ラー」を大々的にPRしたことがきっかけで、観光客も「朝ラー」に繰り出すようになったというわけです。その際の「朝ラー」の命名者は「河京」の佐藤さんだそうです。
最後に、大震災直後のことを紹介して、この長話を終えたいと思います。2011年の大震災、原発事故の後、喜多方は原発から100キロ以上離れているとはいえ、風評被害で客足はさっぱりという状態になりました。私も心配になり、5月の連休に帰省して、坂内やまことの様子を見に行ったのです。日本中で「がんばろう日本」が叫ばれていたころです。そしたら何と、1時間どころか2時間近い行列ができているではありませんか。参考までに私が撮った写真を添えました。町の人たちもその行列を見て大いに喜んでいました。目抜き通りを歩行者天国にしたイベントの人混みを歩いていたら先に紹介した麺食の中原さんにばったり会いました。やはり観光客が戻ったことに感激していました。三陸の被災地で喜多方ラーメンの炊き出しをしたりしてきた帰りだとのことでした。
「蔵のまち喜多方」にとって、ラーメンは大きな存在になっているのです。町の元気度をラーメン店の行列で測るようになっていたのですから。
少し長くなってしまいました。よもやま話はこの辺で終わることにします。いずれにせよ、今後とも喜多方のラーメンをよろしくお願いします。 (2012年12月20日)
震災直後の2011年5月5日、坂内食堂に並んだ行列
*毎日新聞OBの同人誌「ゆうLUCKペン」への寄稿
遊びで好き勝手なことを書いている文集です