第3回会津藤樹学の起源と展開

第二六期 會津聖賢塾 立志セミナー
第三回 「~ 会津藤樹学の起源と展開 〜」
平成三十年十月三十一日

主催 會津聖賢塾 代表 江花圭司

講師 林 英 臣

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 ◆ 教本18第3回1031
 ◆ 教本18第3回1031ダイジェスト

大和川正門
大和川正門


あらためまして、おばんでございます。
 前回は、中江藤樹の思想についてお話ししました。一般的には日本陽明学の祖と呼ばれております。しかし、「単なる陽明学の紹介者と言う事ではない。」と言う事を述べました。むしろ、親孝行の「孝」と言うキーワードを核にし、藤樹学を教えた思想家であったと言う事でした。それからまた、中江藤樹の教えは、勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)と言う生き方の基本が、おそらく喜多方、会津の皆さんに非常に響いたと言う事でしょう。それで、全国で最も藤樹学が伝えられた地となったと言うところまで、前回述べさせていただきました。
 今日は、その藤樹学が、なぜ、会津喜多方で広まったのかを述べて参ります。皆さまにとっては当たり前の事で、復習にしかならないと思います。なんだか、今日の私は、講義をさせていただくと言うよりは、何か研究発表させていただき、諸先生方に見ていただくと言う、前回以上にそんな思いが強うございます。実際、地名や人名で読み間違える事がある事と思いますので、それにつきましては、後でもご訂正を賜りたいと思います。可能な限り調べたつもりです。また、どうしてもわからないところは、江花さんを通して教育委員会の先生方に教えて頂く事も経まして、この講義に至っております。それでもわからないところがあると思いますので、是非、色々教えて頂きたいと思います。そして、前回と今日の内容を調べるにつけ、本当に喜多方と言うところの深さと言うところを感じております。
 会津の立志セミナーも二六年目と言う事を前回申し上げました。二六年目にして、色々とわかってきたと言う事も前回お伝えいたしました。なぜ、喜多方と若松の皆さんの仲が悪いとまでは言わないけれども、喜多方は喜多方人としてのプライドを持っていらっしゃる。若松とは違うんだ。それが、どう違うのか。と言うところが十分わかっていなかった。と言う事が自己反省であります。別に仲良くすれば良いのに。隣同士のまちではないか。歴史的に御城下の若松とは違う歴史を持っている時代を通しての背景が違う、それはわかるけれども、いつまでそれを引きずるのか。と言うぐらいに思っていたわけでございます。しかし、学ぶにつけ、喜多方の皆さまの何とも言えないやるせない思い、藤樹学をわかってくれたら、仲良くなれるんだけど。藤樹学と言うものに生き方の基盤を置いたと言う喜多方人の心意気、深い意識、そこをわかってもらわないと、中々、同じ会津地方だから、同じ会津盆地だからと言う括りで一緒にされるのは、どうしても、納得できないところが、今回、色々調べさせていただくにつれ、私の中にも沸々と湧いてきたと言う思いです。今日お配りしました資料「会津藤樹学の起源と展開」をお配りしてもらっております。それと、喜史(喜多方市史)から抜いたものも2枚で配ってあります。今日はこれを元に清座を行います。

「会津藤樹学の起源と展開」
◆なぜ藤樹学が會津北方に広まったのか?
 参考図書としましては、資料2枚目の下の方に入れておきましたが「中江藤樹の生涯と思想」、そして喜史の第二、第八、第九巻から内容を抜いております。
 なぜ、藤樹学が会津喜多方で広まったのか。それは、朱子学が観念的だった事。朱子学は大変まわりくどいところがあるのです。あらゆる物事には、原理となる理、あるものをそうさせている原理が必ずある。それを捉えない事には、もの事がわからない。心を整え、正座をして理を極めていく、これを「究理キュウリ」だと言う事も述べました。
 一つ一つ理を極めると言っても、そのためにどうやって本質を掴んでいくのか。現象を離れて、本質を掴んでも、結局、現れてくる現象を通してしか本質は掴めないわけですよね。ある人の本性を掴む。どうやって掴むんだ。その人の喜怒哀楽、この人は、こう言うところで喜ぶんだ。こう言う事に対して憤るんだ。その人の喜怒哀楽と言う現象を通して、その人の本質を見るしかないですよね。
 しかし、朱子学は現象を離れたところに理がある。それを極めろと教える。中々、これは大変な事なですね。ですから、頭の中で思う事「観念的」であり、とにかく頭の中で感じ取り考えなきゃいかん。ですから、まわりくどいわけであります。朱子学が観念的であった。その朱子学をベースに学問を教えたのが会津若松であった。そこで皆さま方のご先祖様たちが、どうも朱子学では満たされないものがある。何かまだあるはずだと、大変求める気持ちを強く持っておられた。
 そう言うご先祖の要求に対して、喜多方地方には立派な指導者が続々と現れたわけであります。特に藤樹学を導く者は、地方行政の末端を担う郷頭(首長)や肝煎(親方様、庄屋)の皆さんであった。若松であれば基本的に武士がそうなるでしょう。しかし、喜多方の場合は、郷頭や肝煎の皆さんである、自分たちの仲間であり、それを導いている人たち、それが藤樹学を学び、また、まわりの者たちを導いていかれた。すなわち、藤樹学は庶民の立場から藩政を支える思想内容を持っていた。藩政を支えると共に、特に喜多方にあっては、村や地域の秩序を支え、そればかりではなく、単に上から抑える事ではなく、喜多方に住んでいる方々の生き方の基本が藤樹学にあり、また、生まれてきた事が嬉しい、そして、生きると言う事が喜びに満たされている。「なんて嬉しいんだ」と言う事を藤樹学から掴んでいった事から、藤樹学は心を練る学問「心学」と言う事でございます。
 そして、各村内の道徳的思想として精神的飢えを満たしている。そして、村役員の資質も向上していった。言い換えれば、精神的飢えがあったと言う事は、どれくらい向学心に燃えていたか。全国的に考えましても、凄い土地柄なんだなと言う事をつくづく感心させていただいた次第であります。しかもそれが、こうして今日もお集まりくださった皆さんに受け継がれている。また、喜多方を更に素晴らしいまちとするためには、原点からもう一度見直さなければならないと、江花さんがそのように覚悟をされて、この講座を開いてくださった訳であります。それが喜多方と言う土地なんだなと、本当に改めてありがたいところに呼んでいただいたんだと感謝申し上げる次第であります。(会場から拍手あり)
 それで、中江藤樹が喜多方にみえた訳ではありませんね。中江藤樹の高弟であった淵岡山と言う人から喜多方の皆さんは学んだ訳であります。

◆淵岡山(ふちこうざん 1617年~1684年)
〜 藤樹学の正統後継者 〜
 時代はやっと、戦国乱世が落ち着いてきた頃。仙台出身の伊達家家臣だった淵岡山。その人柄は温厚で君子肌であった。非常に人格がはっきりされていた。この淵岡山先生は、中江藤樹が三七歳の時に入門、四一歳の若さで亡くなってしまうので、師匠である中江藤樹の学問は円熟期でした。亡くなるまで四年間師事した。
 やがて、京都に校舎を開き弟子を集めて藤樹の学を教授なさった。ところは、京都西陣。私はこの内容を話すにあたって、雰囲気だけでもつかみたいと思って京都西陣の地を訪ねて、そこにある晴明神社の全宮司のお宅を叩いて、出てきていただいて「実は、この辺りに淵岡山先生がお住まいで、ご指導されていたと聞きますが、一体どの辺りだったでしょうか」と、丁寧に外まで出てきていただいて教えていただきました。この西陣に中江藤樹先生をお祀りするお堂である祠堂と学び舎である学館を建てて教育していきました。講学四十年、講義を行ったわけです。私が会津に伺って二六年目ですから、あと十四年くらいはやらないといけないと言うように思うわけでございます。
 それで、藤樹学を全国二四カ国へ伝えます。その中で、特に伝わった場所は、京都、伊勢、江戸、会津、熊本。中でも会津学派が最も興隆する。これを特に新田義則さんから聞いていたんですよ。
 中江藤樹の学問がこの喜多方の地に伝わっていて、それが自分たちの学びである。何度も伺いましたね。しかし、当時は、地域には地域の学問があるのだ。と言うくらいに受け止めていました。しかし、この事がどれほど大切な事なのか、それを私が掴むまで四半世紀かかるとは、何と鈍い人間であろうと自己反省の極みでございます。
 淵岡山、経営の祠堂と学館に、会津から十一両、全国からも送金寄付された。中でも会津の方々が多くの寄付をなさって、それによって経営されました。さらに、それだけではありません。当然維持費がかかります。清風堂と言う同志の会をつくり、心学村を設置して質屋蔵を経営した。要は、質屋を経営してその利潤を、京都に送金すると言う仕組みをつくった。ここまで、喜多方の皆さんは藤樹学を学ぼうと、いやいや、守ろうとされた。これは、生半可な事ではないと思われます。
 さて、淵岡山は、仙台の母親の墓参りの帰りに会津へ立ち寄っておられるわけでございます。その会津に立ち寄るのも、喜多方の方々が要請されたわけでございます。そして、喜多方の方々が淵岡山先生を歓待した事によって、益々、喜多方の地で藤樹学が盛んになっていきました。淵岡山先生の亡き後は、喜多方市史の七一四頁に書いてあり誤植がありますが、長子・淵半平が継嗣するが、半平も世を去り、その娘キンが学館を継ぐ。そして、淵貞蔵(前の三子東條長五郎の曾孫)としてキンの婿となり後を継いで行くんですよ。それは、誰の子孫かと言うと、今の喜多方上高額の東條長五郎の曾孫であります。この東條長五郎が、前の三子の一人です。前の三子については、この後述べていきますが、三人でこの会津藤樹学をしっかり受継いでいきました。その一人が東條長五郎であって、その曾孫が淵岡山先生の家を継いでいったんですよね。会津から支援していた学館相続のため淵岡山の長男の娘の婿養子となって同家を継ぐ事になるんですね。そして、貞蔵は、京都御所をはじめ、公卿からしばしば講話を依頼され師として迎え入れられた。すごいですね。喜多方のご先祖が、都の公卿たちに講義をなされた。それによって藤樹学が伝わっていった。京都と会津、とりわけ喜多方の地の繋がりが深いと言う事であります。淵岡山先生のお墓は、京都東山永観堂禅林寺にございます。遠くないうちに私はお参りに行こうと考えております。私もご縁があって会津にも喜多方にも京都にも繋がりがあります。大変、お参りできると言う事自体が、大事な事だと思う次第でございます。
 さあ、そして、淵岡山先生から学びつつ喜多方の藤樹学がどのように喜多方に展開していったかと言う事です。
 喜多方の藤樹学の開祖である矢部惣四郎、よくもここまで多くの方々のご努力と繋がりによって今に至っているのかと言う事をひしひしと感ずるのですね。一人二人すごい人が出てきて、多くの人にパッと広がったと言うものと違うのですよね。もう連携プレーのように、次々立派な人が出てくる。これまた、なかなか無い事だ、何事につけても、大抵は少数の飛び抜けた人が出てきて、その人にみんながくっついて行ったと言うような歴史が多いんですけど、喜多方、若松も含めて、皆さんでもって受け継がれていく。これは凄いなと。土地の持っているエネルギーが違う。そうじゃなければ、連携プレーのように立派な人が多く出てくると言う事は無いと思うのです。

◆喜多方の藤樹学の開祖は矢部惣四郎
 若松城下の医師大川原養伯、荒井真庵。まず、この二人の名前が出てくるのです。このお二人が、京に上り淵岡山先生に入門する。留学四年ですよね。大学生だったら四年が当たり前だと思うけど、もう、仕事を持って社会人として生きていた二人が、せっかく都に行ったんだから四年間留学する事になるわけです。そして、会津に帰ってから矢部惣四郎と言う若者に伝えるんですよ。そしたら惣四郎も即刻上京して淵岡山先生に入門するんです。反応がいいですよね。モジモジしない。モタモタしない。いいと思ったらサッと都に行く。このレスポンスの良さ、素晴らしいですよね。喜多方から京都は遠い。相当日数がかかります。二十日ぐらいかかるようです。今ならすぐ着ける。しかし、昔の旅と言うのは、旅先で病気になったり、盗賊や追い剥ぎに襲われたり、何があるかわからないのです。また、ふるさとに戻れるかどうかはわからないのです。今であれば、中東の危険地帯に行くようなものです。最近、三年くらい捕まっていた方が解放されたと言う事がありましたが、それと近く、旅は命がけです。それで、「即刻上京し」と言うのは凄い事です。淵岡山先生に入門した。そして、矢部惣四郎は非常に才智態度がよろしく賞賛を受けた。そして帰郷し、喜多方の小荒井村、小田付村を中心に学徒を集めた。しかし、残念ながら矢部惣四郎は、三十一歳の若さでこの世を去った。せっかく良い人が出てきたのに、その人がいなくなると、そこで途絶える事が多いのですが、途切れない。矢部惣四郎が学んできたものが、前の三子に伝わっていくと言うわけです。前の三子もまた、都に行って学ぶ事になるのです。この辺りの歴史は詳しく調べていけば、ますます、いろいろな事がわかってくるはずです。
 まずは、大川原養伯と荒井真庵 の二人が、淵岡山先生と出会います。(なぜ、会津は新しい教えを求めていたのか。朱子学に行き詰まっていたからか。)噂を聞いてなんとかいい先生を探さなければいけないと言う事で、淵岡山先生に出会い入門する。それをすぐに矢部惣四郎に伝える。それで、大川原養伯や荒井真庵、あるいは、前の三子の三人が話合いをして、矢部惣四郎を送り出す事になるのです。
 矢部惣四郎が帰ってきて、その学びの様子を前の三子に報告して藤樹学は伝わっていきます。小田付村の郷頭で五十嵐養安、岩月上岩崎村の郷頭で遠藤謙安、関柴上高額村の肝煎で東條長五郎、この三名が前の三子、「子」と言うのは先生と言う意味がありますから、藤樹学の正当後継者としての先生と言う意味になるわけでございます。前の三子に学ぶ者は、農商男女の別なく心ある者たちであった。なまじ、若松と違いますから、侍が上から抑えると言う事が少ない。それだけに余計、喜多方の地では、自由な学問、自発的な学問と言うものがやりやすかったのではないかと推察するわけです。
 前の三子の一人、遠藤謙安は行政側の役職に立つ身でありながら、常に農民側にあって問題を処理しようと努力した。つまり、学んだ事をそのまま活かしてきた。逆に、学んだ事を趣味、とりあえず免許は、たくさん取って持っている。しかし、活かす事ができていない。と言う方々も多い事でしょう。そうではなく、藤樹学を学ぶご先祖の方々は、学んだ事をそのまましっかりと活かしていく。「知行合一」なんですよね素晴らしいですよ、生き様が。
 その結果、風俗は改まり、論争は少なくなった。論争だけでは解決しません。謙安は、會津藩校から表彰された。三子は自ら京都に上り、直接、淵岡山先生に会い、藤樹学の細やかさを得て、直に正当後継者たる淵岡山先生に会ってその人柄、立ち居振る舞いを通して直接学ばないとわからないと京に上った。やはりこれは、人格から人格へ受け継がれていかないと、伝わらないものがある。前の三子の京都での研修や、その後の書状での交流、文書でもって交流していくわけであります。これは、頻繁に行われていたと言う事で素晴らしいですね、今は、メッセージですぐにやり取りできてしまうけど。手紙だって当然日数がかかるわけですよ。飛脚が運んだって日数がかかります。でもそうやって、当時においてできうるだけの学びをしていったと言う事ですよ。そして、京都における淵岡山先生の学舎への支援が続けられていくわけですね。本当にすごいつながりなんだなと思うわけでございます。

岩月村太用寺「藤樹学信奉者御廟」
岩月村太用寺「藤樹学信奉者御廟」

【遠藤謙安の親孝行・五十嵐養安の教え】
喜多方史第十巻 六六五頁
◆遠藤謙安、親孝行のエピソード
 上岩崎の母屋の東に父の隠居所を作る、父は老いても賢にして、朝早く起き出し、庄七郎(謙安の幼児名)が元へ行って指図する事、常とせり。そう言う事から、冬の夜の雪積もった時は、召使いは多いけれど、自ら起き出して、父に知られないように、道を平らにする。ここの冬は雪が深く積もりますから、母屋のすぐ隣に父の隠居所があるとは言え、歩けませんので、父が知らざるように自ら雪を踏み分け、父が歩きやすいように道を平らにする事は、息子が必ずやった事。ここに遠藤謙安の親孝行がある。之、父が歩みよからんなり。父が歩きやすくするためだ。その人となり、謙退にして驕侈(きょうし:ほしいままにおごる)をきらい、人のためを思いて真実に諌(いまし)めをなし。
謙安の人となりと言うのは、丁寧でへりくだっていた。おごり高ぶる贅沢を嫌って、人のため真実にいましめをなす。真実に照らして良く諌めた。また、人より己を諌める時は、良く聞き入れてかたじけなく思い、すでに受容の心深く、遺存を超えて甚だ孝あり。
 人から自分に対して、何か注意がある時、良く聞き入れてありがたい事だと思い。常に受容の心深く人からの注意を、しっかりと受け入れて、そうした注意を元に一村を治めて、とても功績があった。良く働くように農夫に勧める、しかし、怒る時はしっかりと怒る。厳しい顔で怒る。うちに慈愛がある、心に温かさがあって、どんなに怒る時も、頭はクールだから伝わると言う事です。ハートが冷たいのに、頭ばかりカッカしているのは結局伝わらない。見た目は怒っているが、でも、ありったけの愛情がしっかりとハートにある、怒りながらも頭は冷静でいる。なかなか大変ではありますが、藤樹学に学ぶ者であれば、それが、だんだんできないといかん。できるのが実学である。そう言う事だから、前の三子の一人として讃えられたと言う事になる。どんなに厳しい注意を受けても恨む事なく、親しみ、懐いてくれた。
 農作業の暇、農閑期、村の休日には、まるで僧侶が説法するが如く老いも若きも子どもも大人たちも、お互いの決まりごとや、心得などを読み聞かせて、言って教えた。これだけ、しっかり教えていけば、お互い心が通じ合うようになっていくし、わかり合えるようになるから争いも少なくなっていく。わかってもらっていると言う安心感があり、人の気持ちを汲み取れるようになるから、自ずと争いは少なくなる。そうであれば、罪を起こす人も稀になる。悪い事などする必要も無くなる。藤樹学の中にあるわけでございます。やはり人間は善なる部分を持ちつつも、同時に悪の面もある。素直に人間を見たらどちらもある。誠意と言う言葉があって、意を誠にする。意と言うのは、心の中に起こってくるもので、その心に起こるものが時に悪をなしてしまうわけでございます。そうならないように、意を誠にしなければならないのです。藤樹学で学んだ人たちの意が誠になっていけば争いもなくなっていく。また、悪事も無くなっていく。そうやって地域が本当に住みやすくなっていく。これを指導した一人が前の三子の遠藤謙安であると言う事でございます。

◆五十嵐養安の教え
 五十嵐養安翁が言いました。学問の趣旨は、良知を信じるところにある。この良知が陽明学の基本になるわけであって、それと同時に藤樹学のキーワードになります。元々は、孟子の言葉です。良知といえば、心の本体です。人が人である事の根本が良知であると言う事です。一人一人に心の本体がある、それを信じる、そこから教育が始まります。
 しかし、良知があるかないかわからなかったら、そこで教育は終わりますよね。どうせ教えたってダメ。教えたところでわかるわけがない。そうなってしまったら何も伝わる事は無いのです。よって、学問の趣意は良知を信じるところにある。そこから始まるのだ。
 「今日の上」とは今日において、「わが心の一点の黎明に従うは」は、自分の奥深き魂に、その黎明たる己の本質がある。神道で言えば、生魂(イクタマ)、自分を生かし自分としている魂の本体、これを生魂と呼ぶわけであります。一点の黎明は、良知と等しく、生魂繋がる事でありましょう。
 本体である良知の心に近づくように、信じ喜ぶべし。わたしが私でいられる根本が良知として備わっているんだ。そこに至る事ができるんだと言う「至良知」が励みと希望。私でも聖人に近づく事ができるんだ。君子として生き、聖人を目指す事ができるんだ。これは、当時の人たちからすると最高の喜びであったわけです。もう特別な人しかなれないと思われがちな聖人になれるんだ。まずは、君子となろう。目指そうとする人の事を君子と言います。まだ自分は不完全だけれども、聖人を目指す。そう言う志を立てた者の事を君子と言うわけですよ。
 あえて仏教で例えますと、高いところに登った仏様は「如来」と言います。阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来、如来は高い仏様です。その高いところまでは、まだ、到達していないけれども、近づこうとしている仏様の事を「菩薩」と言います。地蔵菩薩、観音菩薩、普賢菩薩、色々な菩薩があります。菩薩は、まだ、人間的な意識を強く持っていますから、基本的に菩薩像は、お洒落です。色々な物を身につけております。あまり身につけていないのは、地蔵菩薩です。地蔵菩薩は、質素だけど、観音菩薩は、本当に煌びやかです。つまり、綺麗でいたい、良く思われたい、そう言う人間心を、存分に持ちながらも皆を救いつつ、自分も救われたい。そう言う段階を菩薩と言うそうです。菩薩として、世のため人のために励んで行く事を菩薩行と言うわけです。これを言い換えますと、聖人は如来、君子は菩薩と言うわけで、我々は、君子行と言うものを立てる必要があるわけですよ。君子に生きる斯様な心得が尊いと言っていいかと思います。明治以降の民主教育、平均化された教育の中で、君子を目指す。したがって、徳を高めていく「高徳」、君子は徳を高めて行く事。徳が高まれば君子となる。これが江戸時代が終わるまでの日本人の生き方の基本形であったわけです。そうなりたい、自分ももっと喜びに満ちた生き方をしたい。それには、喜ばれる喜びが大事で、どう人の役に立ったらいいか、お互い人の役に立とうと思い合える世の中になれば、もっと幸せになれる。そう言う教えがあるはずだ。学びがあるのだと、それを掴みたい。それをこの喜多方の地に広めたい。それが結局、藤樹学の起こりであった。
 さあ、そこで、今は、良知の話を述べさせていただきました。それで、「しかるに初学の時より、良知の全体に至らんと求むるは」良知と言うものを大切なキーワードとして、学びなさい。学問の初めから、立派な志とは言え、力量が問われる。つまり、いきなり良知を掴みとる、良知と言うものを監督して、己に良知に基づいた徳が満たされてくる。そうなったら凄いですよ。でも、よほどの天才でない限り、いきなり完成と言うわけにはいかないわけですよね。また、もし、一気に掴んだと思う場合でも、それは、一つの思い込みであって、良い意味での思い込みですが、まだ、身についているとは言い難い。やはり、何事も繰り返し、繰り返し、掴んで行くわけです。身についたと思いきや、いやまだまだ至らないと反省しつつ、コツコツ努力を重ねて行くうちに良知を意識し、己の心胆に刻んで行くうちにだんだん身について行くものです。そして、何かあるごとに大小問わず人の役に立ちたい、人に喜ばれよう、何か地域の役に立つ人間となって行こう。大きくは天、宇宙に対して、目の前の相手に対して、自分にできる事を尽くして行く事が「孝」です。その「孝」を一つひとつ積み重ねて行くと、やがて、良知と言うものの存在がわかってくる。だから焦るなと言う事を、五十嵐養安は教えたわけでございます。
 その焦りは、どう言う事かと申しますと。隣へもまだ出かけていないのに、もう唐へ行かん。これは、まだ隣の家にも到達していないのに、もう隣の国へ行こうと願っている惑いなのだ。「先隣近き処より歩を進むべし」まず、目の前から隣から近いところから歩みを進めなさい。「此如く取りて信ずるときは」学問は深く、行動は目の前から、そのように信じて進んで行けば。「徳に進むべし」徳と言うものが進んで行くでしょう。「従いて見る処 本体も定 静安に至んや」こう言うコツコツおやりなさい、そうすれば、良知も定まり、非常に心が安定し心が定まると言う教えです。実学として、今できる事から、目の前にある事からやりなさい。と言う事を伝えていると言う事です。
私も、実際に人を見る時に、今できる事をやっている人かどうかを見るようにしております。どんなに大きい事を言っても今できる事をやろうとしない人は、結局やらないと言う事を多く見て参りました。今できる事、仮に、将来フランス料理のシェフになろう、それを夢として語る、それは、今している事やできる事を見ていれば、きっとやるだろう。と言う事がわかってくるわけですよ。フランス料理を学ぶためにパリに渡るためには、思いつく事は、フランス語の勉強、少しお金を貯めて国内の有名フランス料理のお店に行き体験してみる等、様々なやれる事があるのです。それをちっともやっていないで、いつかパリに行こうと言っている人は、永遠に渡る事はないだろうな。もし、チャンスが来たとしても、チャンスはその人を素通りして行くだろう。また、チャンスに気がつけないだろうと思わざるを得ないわけでございます。だから、今できる事をやっているかどうかです。
 その今できる事とは、どんな事かは、自分の夢や素志から成る志が明確なほど、今やれる事が明確になって行くわけです。だから、目の前の小さなやるべき事をおろそかにしないこと、その目の前の小さな事が、ただそこだけで終わってしまう場合は、足踏みになってしまいます。どこに向かうか不明瞭なまま、ただ、目の前の事に追われていると、人生は足踏みの繰り返しで終わるでしょう。しかし、そうではなくて、江戸に行くんだ、江戸に向かって一歩ずつ踏みしめて行く、到達点が明らかであって、今日は今日、今日は足が痛い、だから長くは歩けない、しかし、少しでも江戸には近づいた。これを重ねていけば、必ずや江戸に近づいていく。今できる事、今日やれる事、それもやっていないのに、どうしてこの人は志を果たす事ができるであろう。いやいや、この人の言う志は、志でも何でもない。ただ人前で大きな事を言いたいだけ。それでは、全くものにならない。いかに世の中、虚学が多いか、偽りの学問が多いか、学んだら幸せにならなくてはならないのですよ。学べば学ぶほど実行の人になる。そうでなかったら、そもそも勉強と言えない。そう思う時、藤樹学がどれほど実学であったか。どれほど藤樹学によって喜多方、会津の皆さんが立派になっていかれたか。それを一人、二人の先生が教えたと言うのではないのですよ。数多くの後継者が喜多方に育ち、そして後から出てきますが、学ぶ者が千人、数千人と増えていった、土地をあげて学んでいった。本当に凄い事です。お上がやれと言ったわけではなく、上から強制したわけではない。自発的にここまで学び合うと言う事、これはもう学問における奇跡のような事であると言ってもいいのではないかと思います。

◆心学御禁制について
この藤樹学もいきなりお上が受け入れたわけではありません。どうも怪しい、これは問題だと言う反応が起こった。そこには藩家老の権力欲で、こう言う勢力を抑えて、自分の実力を発揮しようと言う思惑が起たり、それから、僧侶が、自分の陵墓が荒らされると言う、儒学による葬儀が行われ陵墓が荒らされると言う事によって、急速に広まってきた藤樹学に対する反発が起こるわけです。これは、何事に対しても起こる、ある意味で人間社会の性と言ってもいいと思います。それがどう言う風に起こったかでございます。
 幕府や藩の施政である仏教への帰依(キエ:すがる事)を否定する集まりとして危険視される。人としての道を教えているが、夜間に「清座」と言う集会を開き、良知・意念などと言う聞き慣れない言葉を用いていた。
仏道を離れ僧の営みを否定する事、葬儀は儒教的葬礼により学徒仲間で一切が行われている事、仏教で嫌って非難される忌避される魚鳥がお供えに上がる事などが、幕府の大法をはばからない(幕府のルールに遠慮したり気にもしない)不届きな行為と見なされた。
 夜に行われる清座は、強訴(ごうそ:徒党を組んで訴える)か一揆を想定しての集会ではないかと疑われた。(田畑から帰ってからの出席となれば夜となるのは当然)
男女を差別なく同席させ、孔子の掛け軸「太上感応篇」や「孝経」(孔子の言動を記した)の巻物を厨子に納め、それらを拝しながら清座の学習を進める事が、藩庁人には特異な光景に見えた。要するに、耶蘇教(キリスト教)による島原の一揆発生の過程ではないかと警戒された。役所に呼び出された前の三子は、大道を学んでいる事、中庸を学んでいる事、孝悌忠信の道を学んでいる事を述べている。やがて、怪しい所が一切ない事がわかり、禁止令は解除され、むしろ学徒の数が増えていきました。

 喜多方市史 第二巻 二八九頁
 ここに藤樹学の広まり方、それに基づいて、集まりの決まり事が出ておりまして、心学の禁制と言った出来事がでておりますので、当時どんな風に学びが行われていたのかを、よく味わいながら読んでいきたいと思います。
『淵岡山が会津に滞在したのは天和三年一六八三年四月十八日から五月二日までであった事。』決して長くはありませんよね。わずか二週間程度と言う事になります。
『学徒たちの学習は「心学」と呼ばれて町郷村には多くの弟子たちが存在していた事を挙げている。』当時の記録です。
『弟子たちの学習会は「清座」と呼ばれ、良知、意念などの言葉を学び』意念とは、考え、気持ちと言いますが、意と言うものが起こり、放っておくとそれは悪意ともなります。そうならないようにするのが誠意。そう言う事から、気持ちの持ち方、考えの置き処が大事であると言う事になる。それが意念と言う熟語に表されています。
『平常の心持ち、朝夕の身持ちについて話し合い、善悪をわきまえ、善良で正しい心をお互いに磨きあい、忠孝を励まし、明徳を明らかにすべく学んでいる。』明徳は、生まれながらに備わっている徳。生まれながらに得ているのが徳。それを磨こうと言う事を、明徳を明らかにする。と言うわけであります。
『使用される書籍には、四書(大学・中庸・論語・孟子)や経書の一つ孝経・翁問答・春風(徳目や説話など、心得としての例え話などが書かれている。)など挙げられ、女性には鏡草(女性の心得をまとめた)を読み聞かせ、語り聞かせている。
『会津における学徒の集会は、「清座」と呼ばれ、会場は主に郷頭や肝煎の家が選ばれ、夜間の集会が多かった。会への参加者は上記「会津藩家世実紀」にも述べられているように「町郷村共に千人程も有之」と言わしめ、岡山の会津での講釈以後、一層の隆昌をみる事になった。』すごいですね千人と言うのは。さらに、この時代に合った藤樹学として学ばれるでしょう。ちなみに、この部屋も清座に使われたと言う事ですね。そうです、隣の御宅が手代木家と言う郷頭の家で、こちらの大和川さんの良志久庵では、平成二十二年に地方の元気再生事業にて、北方の藤樹学清座が行われました。雰囲気的には、清座を行うには十分なお部屋ですよね。こう言う場でこうして学び合えると言うのは、当時を偲びながら学べるわけですから、いいですよね。
『なお清座と呼ばれる集会には、三カ条からなる「会約」がつくられている。宝永二年四月のそれをみると』だいたいこれが、前の三子が活動した頃と重なってくるんですよ。
『会約 一、凡そ学友の集会には謙虚を以て主となし、任的(目標を持つ)を以て要となし、輔仁の益を求むるべし』
お互い清座の集会の時には、謙虚でなければならない。特に先輩が後輩に偉ぶると言う事は、どんな世界にも起こる事ですが、お互いを尊重し謙虚にやりましょう。千人もの学徒ですから、各清座といっても何十人も参加するわけですから、偉ぶる人も出るわけです。だから、何事にも謙虚である事を主として、それぞれ目標を持って何を学ぶのか、学んでどうなりたいのか、何を解決したいのか、どう言う人になりたいか。と言った目標を持って学ばないと聞いた事も、読んだ事も素通りで終わりますよね。何しに来ているのか。何を掴みたくて来ているのか。今日は何を知りたいのか。それがなかったら意味がない。辞書を開く時に、何の文字を調べたいかと思って辞書を開きますよね。やはり、何を調べたいのか。目的があった方が身につきます。身につける学び方を「実学」と言います。そして、輔仁ホジンと言うのは、そばに寄り添って助ける事。だから、お互い助け合い励まし合う。そう言う、役に立つ事を求め合いましょう。という事です。
『一、雑談、戯語はこれを禁ず、議論絶ゆれば則ち黙止して存養すべし』ザツダン、ギゴ、どうでもいい話、戯言は禁ずる。お互いあれこれ話し合っているが、議論が止まったならば、そのまま黙って、学んだ事が自分に深く入って行くように己を養いなさい。と言う事です。人の言う事は聞いていない、自分の言う事は、すぐさま割り込む。このような会話をカラオケ会話と言っています。人が歌っている時は、耳では聞いているけれど、自分の歌を探している事が多いですよね。それとは違って、ひと時、シーンとなって、その時、学んでいる事が深まって行くと言う事が大事であると言う事ですね。
『 一、飲酒は三行を過ぐべからず、献酬する勿れ、これを強うるも大盃に及ぶべからず』酒も飲みすぎてはいけない、三行:孝養、葬禮、祭事。孝養:親と飲んだりする事。自分のためだけに飲まない。だいたい、自分のためだけに飲む事は、やけ酒になるわけですから、それは、よろしくない。お酒は、この三行が基本だ。そして、やたらに勧めすぎない。そうは言っても、どうぞお飲みくださいと勧めるが、大きな盃に及ばないようにと言う事で、勧めすぎないように。と言う事になります。この部分は、会津に残ってなかったなと思うわけで、皆さん勧め上手で。皆さんの人情として頂いているわけでありますので、感謝いたしております。
『右条々各自慎弁すべし、過ってこれに違わば則ち宜しく規制すべし』右の各条、慎んで弁(わきま)えなさい。この会約を守れない事があれば、宜しく守れるようにしなさい。と言う事でございます。
『学習者の心得として作られたこの三カ条は、学習の始まる前、必ず読誦していたといわれる。』ちゃんと唱えていたのです。
『この外、会場において、学友によって誦経されていたものに「白文孝経」と「太上感応篇」があげられる。』
(白文:漢文の原文のままのもの、それを読み下して読み合ったのです。太上感応篇:道教の経典、古代中国の伝統的な民間信仰が道教。ここに書いてあったのは、勧善懲悪でした。善を勧め悪を懲らす。いかに善を行うと幸せになるか。悪を行えば自分に返ってくる事を教えていた。)

◆心学の禁制(喜多方市史 第二巻より)
『天和年間(一八六八~八三)には、会津領内の藤樹学(心学)の学徒千人余といわれ、隆盛をきわめた。学徒のなかには、在来の仏道から離れ、魚鳥を供えて死人の葬祭を行う者がいたり、夜間に開かれた清座は、藩に抗する徒党とみられたりと、不可解な集団として藩の役人に見られた。
 また、藩学の中心は朱子学であり、山崎闇斎の厳しい学風「敬外義外」(まず自分の心を正す事、即ち外界からの触発によって情の兆す以前の心(未発の心)を正す事が求められ、自己の内面における厳しさだけでなく、他者に厳しくはたらきかけ、これを正す事)であった。それと異なる、良知とか意念などの言葉を使い、また「良知に致る」といった教えは、心に内在する良知を超えて「天を戴き祈る」と言う宗教的性格を持った教えであり、これも藩の役人には不可解に映った。
 保科正之公が山崎闇斎を招聘し、会津藩の学問は朱子学が中心となった。朱子学は、厳しかった。学んで、いきなり身につけよ。学んだら直ちに立派であれ。すぐに立派にである事が求められた。かたや、藤樹学の場合は、だんだん身につけなさい。いっぺんに身につける事は無理がある。そうして、山崎闇斎らの教えに対して、喜多方は実学である藤樹学を重んじてきたわけであります。しかし、藩の役人には理解に苦しみ、まるで宗教の布教活動のようだと言う誤解があったと言う事でございます。「山崎闇斎の厳しい学風「敬外義外」とは、自分に対して矯正し、外に対しても筋を求める。と言う事で、自分に対しても他人に対しても厳しかった。厳しさにおいて自己確立がされていけばいいのですが、庶民に対しての教えとしては、段階を追って教えていかなければならない。元々、侍のように初めから覚悟を求められて育ったような、そう言う者に対してならともかく、日常をどう生きるか。それも日常をコツコツと生きていく私たち庶民にとっては、藤樹学の方が意味を持ち、人が着実に育っていった。それも学ぶほど堅苦しく、息苦しく、肩が凝るとかではなかったわけです。
なぜ、清座の場に多くの方々が集まったかと言うと、心地よかったからでしょうね。楽しかったからだと思います。まぁ、三カ条の会約があり一定の厳しさはあります。だけど、その場で学び合うと、嬉しくなる。生きている事が楽しくなる。楽しいからどんどん人が集まる。そこに藤樹学の魅力があった。行けば心が晴れてくるんですよ。学ぶほどお互い嬉しくなってくる。本当に清座の場に来る人たちは、ワクワクして参加したんです。それは、誘われた時は気乗りしない事があったかもしれませんが、常に千人もの人が学んでいる事は、その学びに喜びがなかったら広がるわけはないし、集まるわけもない。私たちもこれから、藤樹学の復興を期して行くからには、その場が楽しい、嬉しい、ワクワクする、そして帰り道は、身も心も軽やかになって帰って行く。そう言う学びでありたいと思うんですよ。果たして皆さん、今日は軽やかに帰っていただけますかね。
 そして天和三年(一六八三)十二月二十七日)、禁令が出された。「近来心学を学び、其類多党を結、密に集り致執行、其類の内に死者有之時は、尋常之葬に事替り、仏者を離れ取置之仏事施僧之営をも一切不仕之由、粗相聞侯、御大法を不憚如此所行、大に不届成仕方に思召侯、自今以後御制禁に侯、侍は不及申、町在々に至迄存此旨、心学之学び堅相止侯様」(『会津藩家世実紀』)
 その後、養庵・謙安・方秀の三子は藩に呼び出され、「その方どもの言う心学とはどのような教えを相語っているのか。くわしく申し聞かせよ」と尋問されたのに対し、
* 一人は「天下の大道を相学び侯」堂々たる道を
* 一人は「天下の中道を相学び侯」最も調和の取れた中庸の道を
* 一人は「孝悌忠信の道を相学び侯」親孝行の孝、目下をいたわる悌、忠義の忠、信頼の信と言う道を学んでいる
と答えている。
 このように、三人の言葉は、「相学び候」と答えているとおり、高い所から下の者に押しつけるような高圧的な指導や教導でなく、共に道を学ぼうとする謙虚な態度で接する姿勢がみられ、藤樹の教えを継ぐ岡山の精神がしっかりと引き継がれている。
 貞享二年(一六八五)十二月二十四日、次第に事情もわかり、怪しむものはないと確認され、疑いも晴れ、禁止令が解かれた。そして解禁後の北方の藤樹学は、藩の容認のもと、ますます盛んになった。
その間、取り立てて学徒の中に動揺が起こったりするような事はなかった。それだけ、学んでいる事に自信があったし、上に立つ人の指導態度がしっかりしていたのだと思います。やはり、上の者の態度が乱れると、当然それを見て、周りを見て動揺するわけですよね。
 この事については、日本海海戦の時、次第にバルチック艦隊が迫って来た時、連合艦隊も進んでいるので、互いに遭遇する事になります。そして、緊張が走ります。兵たちは直接の上官である下士官を見たそうです。下士官がしっかりしていると、兵も落ち着いた。下士官は、士官を見るわけですよ。士官を見て士官が落ち着いていれば下士官も落ち着いた。そして士官達は、東郷平八郎閣下を見るわけです。それで東郷閣下は、旗艦三笠の鑑室で悠然と双眼鏡を覗いていました。だから、社長が慌てるとみんな慌ててしまうのです。
 また、松下幸之助も生前、せっかく建てた工場が台風により倒壊した。後藤清一さん(後に三洋電子の副社長)と言う現場担当の方が連絡を入れます。「大将、大将、すんません。こちらの粗相で、せっかく建てた工場が倒れてしまいました。」松下幸之助が駆けつけます。後藤氏はとんでもない事になった事で焦っています。そこで、松下幸之助は、焦っている後藤に「かまへん、かまへん、あのな後藤くん、コケたら立たなあかんねん。」そう言って帰っていったそうです。その時の大将は、誰よりも悔しいし、工場が建ったばかりで生産計画も練っていたのですよ。誰よりも怒りたいが、自然相手には起こる事もできない。後藤氏からすると大将の器の広さに感銘を受けるも、松下幸之助の手に持った扇子を開いたり閉じたり持ち替えたり、本当に悔しくて本当は心が落ち着かない様子が、よくわかったと言うのです。あんなに忙しく扇子を開いたり閉じたりする人ではないのに、よほど悔しくても、可能な限り態度に表さないように己を抑えて「かまへん、かまへん」と言ったと言うわけです。
 そこで、何よりも厳しい禁止令と言う何よりも厳しいショックな事が起きているのに、喜多方の先人は、動揺する事なく普段通りであった。見事なり喜多方人。本当に感動する事しきりでございます。
 やがて、淵岡山先生が直に会津で教えてくれた事や、禁制を乗り越えたと言う事によって、益々、広がっていくわけでございます。しかし、中江藤樹先生や淵岡山先生の後を継ぐ前の三子、諸先生方、さらに、その後を受け継ぐと言う事は、容易な事ではありません。いろいろな苦労を経て、集まる者が減る事もあります。

◆後の三子あとのさんしと呼ばれる時代へ入っていくわけです。これが十八世紀後半頃、後の三子の人たちは、小田付村の井上安貞、藩主侍講も務めていた中野義都、幼学校教師で小荒井村の矢部湖岸。これが後の三子と呼ばれる方々です。ただ、後の三子は正確には藤樹学の継承者ではないと言われております。前の三子以来、藤樹学がまた盛り上がった頃のメンバーが、後の三子と言うのだそうです。では、一体、継承者とは何なのか。それは、おそらく、継承者と言うのは、藤樹先生や淵岡山先生の人格が乗り移った方々であると思うのです。そして、後の三子も立派な方々であるはずですが、継承者ではないと言うのであれば、それは即ち、可能な限り忠実に教えを伝えた方々には違いないものの、伝承者ではあった。しかし、人格までが乗り移った継承者とまでは言えなかった。だから、今一度、喜多方が藤樹学、第一の地となっていただくためには、藤樹先生や岡山先生が乗り移った人物が、皆さまの中から出てくる事が大事である。こんな重く話したら、軽やかに帰っていただく事はできなくなってしまいますけどね。

◆会津藩の寛政の改革以降は、日新館の教科内容にも受容され、藩家臣や領民の思想形成に大きな影響を与え「日新館童子訓」へも影響を与えた。しかし、こうして、お上が認め、世に広く伝わる下地ができると言う事は、言い換えるとどうしても気が抜けてきます。やはり、俺たちが頑張らなければ伝わらないぞ、自分たちが踏ん張らないで、誰がやるんだ。そう言う思いが核になる方々に共有されている時に、深く広まっていくわけですよ。お上が公認、ある意味放っておいても大丈夫となると、どうしても気の緩みが起こるわけです。何事につけ、天下の公認となる事が、それは良い事ではあるけれども、なお、核となる人たちには使命感が満ちている、そうでなければ公認の学問になっていく共に絶学の危機が目の前に迫ってくると言う事ではないかと思います。

◆後の三子の後継者は、坂内親懿(恕三)と孫の三浦親懿(常親)を最後に二百二十年続いた会津藤樹学の学統継承者が絶えました。恕三の没後、三浦親懿に至るまでの二十年~三十年間藤樹学は頓挫しました。本当に学統、学問を伝え続けると言う事がどれほど大変かわかります。

◆前の三子から坂内恕三(親懿ちかよし)に至るまで、学徒の数は千人に下らなかった。農民・商人・男女の差別なく教導され、藩政記録書「家世実紀」には、その数、数千人余と言わしめている。
 一部の指導者だけの学問ではない事がすごいですよ。心学自体は、明治以降も全国各地で学ばれている地域はあったのですが、しかし、淵岡山先生が伊達藩の母の墓参り帰りに会津喜多方へ立ち寄ってくださり、その教えがずっと伝えられてきたわけでございますが、二百二十年ほど続いた会津藤樹学は、継承者が途絶えている。研究者はいるでしょう。研究者と共に継承者がいなければいけないわけですよ。研究者は、事実を良くお調べになる方であり、継承者こそ、啓蒙のできる人、新たに学徒を増やせる人。車の両輪です。医学だって研究と臨床の両方が大事です。学問において、やはり研究者と継承者。継承者は、人格が乗り移ってなければいけませんよ。研究と啓蒙継承は自ずと役割が違います。

◆王陽明が心の学として心学と呼び、藤樹の学も陽明の学も陽明の学を伝えて心学と名付けた。
勧善懲悪:善を勧め悪を懲らす。因果応報:良い事をすれば良い結果を招く、悪い事をすれば悪い事が、それなりの応えで報われる事を説き、元来の陽明学とは異なる思想。
 陽明学は、良知を教えるところは同じだが、そこに知行合一(学んだ事と行う事は同じ)あるいは、大学の三綱領に当たる「明徳」「親民」「至善」を一つにして教えるのが陽明学です。
 藤樹学は、元来の陽明学とは異なり、もっともっと様々な立場の人々に生き様を教えていく非常に、會津の藤樹学は宗教的色彩が濃く、純粋な陽明学とは言えない。
 だからこそ、藤樹学は藤樹学として、今一度、世に広めなければならないと思うのですよ。陽明学を学んだから藤樹学がわかるものでは決してなく、会津藤樹学は会津藤樹学として、今一度、学びを深め、今度は会津喜多方から天下に伝えていくと言うところに皆さまのお役目があると申し上げて本日の講義の締めとさせていただきます。

會津聖賢塾 江花圭司より
一同礼 ありがとうございました。の声   以 上

平成三十年十二月十日
文責 會津聖賢塾 代表 江花圭司

 もっと喜びに満ちた生き方をしたい。それには、喜ばれる喜びが大事で、どのように人の役に立ったらいいか、お互い人の役に立とうと思い合える世の中になれば、もっと幸せになれる。そう言う教えがあるはずだ。学びがあるのだと、それを掴みたい。それをこの喜多方の地に広めたい。それが結局、藤樹学の起こりであった。

 藤樹学から培った人間性が、瓜生岩子、蓮沼門三、林平馬を輩出した。
 次回、第四回は「藤樹学より輩出された喜多方の偉人」
 ~瓜生岩子と蓮沼門三、林平馬〜 を
 皆さまに魂をもって語らせていただきます。

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ご連絡いただけましたら幸いです。

          平成三十年十二月十日

          會津聖賢塾 江花圭司