第2回喜多方の藤樹学・中江藤樹の生き方と思想

第26期 會津聖賢塾 立志セミナー
第二回 「~中江藤樹の生き方と思想〜」
平成30年8月29日

主催 會津聖賢塾 代表 江花圭司

講師 林 英 臣

教育勅語の掛け軸「徳器」中江藤樹
教育勅語の掛け軸「徳器」中江藤樹・「博愛」瓜生岩子

【北方の藤樹学(陽明学)】
会津の朱子学(武士道)、北方の藤樹学(陽明学)、米沢の折衷学(鷹山立直し)から人生のバックボーン、社会を生き抜き、勝って時代を牽引するための器量を養うことを目的に講義を行いました。

<<前半>>

【プロローグ】林英臣先生の思い
毎回訪れる度、会津若松と喜多方の意識の違いを、いろいろな方々から拝聴してきました。今回、會津聖賢塾主催で26年目のセミナーを開いていただくこととなりまして、江花さんの方から、藤樹学を話してほしい旨のご指示を賜りまして、私は東洋思想が専門でありました。ひとつの儒学のくくりで話せばいいのだろうと思っていましたが、講義のために様々調べてみるにつけ、これは日本儒学である。そして、会津北方藤樹学という一つの大事な学問、また学統として今日に至っているのだと、今まで私が述べてきた知識で、これを簡単に講義することはできないと思いました。昨年までの25年間、何も知らないで会津で話をしてきたものかと、よくもこれを会津の皆さまが受け入れてくださったというくらいに思って今日を迎えている次第でございます。
今日は、藤樹学で先輩の「喜多方藤の樹会」から多くの方々が参加され大変ありがたく、感激すると同時に、久しぶりに先輩の前で話をしなければならないという緊張感というのを感じている次第です。考えたら26年前まだ私は、36歳でした。参加者は、全て40歳を超えた方々が中心でした。講師の私が最年少、胸を借りて話をしてきました。今回は、原点に帰って話ができると思っております。
喜多方には中江藤樹に関して詳しい方が多い、全国的に圧倒的に藤樹学に触れていらっしゃる、基本的なことは横に置いて、より発展的なお話をした方がいいと思いましたが、されとて、全国どこでも地元について知っているようで知らないことは多いと思います。よって入門的な内容から述べさせていただきます。

お手元資料は、全部で5枚綴りになります。

【資料:中江藤樹の生き方と思想】
中江彰 著 明徳出版社 P36から引用
『奥州の北方の同志たちは、香を焚いて、藤樹自筆の木版刷り「孝経」「太上感応編」を拝唱してから、「翁問答」「鑑草」などをテキストに清座(学習会)を行った。それが江戸末期に至るまで連綿として続けられ、その道統が伝えられた。これは、特筆すべき歴史であると共に、その遺風は敬虔な態度で人に接する喜多方市民の中に、今なお見ることができる。
まさに今、書かれている目の前で講義をさせていただいていることを幸せに思うところでございます。
 木版刷りに色々あるということであります。まず、「孝経」は、孔子の弟子の草子の門人が、孔子の言動について記したという書であり、中江藤樹が最も尊んだ「孝」の一文字に全てを込められた。「太上感応編」は、元来、道教という古代中国の民間信仰にあたるもの、神々を祀る民間信仰がございまして、道教の経典が「太上感応編」であります。隋、唐の後、宋の時代の前半が北宋、やがて政権が南に移り後半が南宋。南宋初期に作られた道教の経典でございます。

「太上感応編」の中に善行を進める、悪行は諌めるという基本となる道徳話が記されている。これらを拝唱して、当時の言葉がまとめられている「翁問答」、中江藤樹がまとめた助手教育の訓話集「鑑草」をテキストに清座という学習会を行った。今もその伝統を見ることができる。これを引き継ぐ先生がたが今日はおいででございます。本当にこの会津喜多方の学問の素晴らしさ、それを伝えてきた皆さまの先人のご努力と、文化伝統が続く日本でありますけれども、それを最も繋げている地域が喜多方でいらっしゃることが今回よくわかった。

なお、今日は、中江藤樹の思想と
まず、どういう人だったのか。
中江藤樹の人柄等についてお話しします。

そして、次回、中江藤樹の思想がどうして喜多方に伝わったのか。

実は、淵岡山という弟子の働きにより全国24カ国に伝わった。しかし、最も盛んであったのが、会津喜多方でございます。それは、会津喜多方の先人の皆さまの意識の高さによるものでございます。リクエストによると一回の講義で全てを話してほしい旨でありましたが、調べてみたらとてもではないが、一回でそこまでは話せませんので、今回と次回、二回に分けて述べていくこととなります。

【中江藤樹のプロフィール】
中江藤樹は、江戸初期の学者でございます。近江に生まれ、会津地方からすれば随分と遠い地域に生まれました。慶長13年1608年に生まれ、慶天安元年8月25日亡くなります。数え年41歳没。江戸初期、この中江藤樹が生きている時というのは、1615年大阪夏の陣なども起きて、まだ実際に刀を抜いて戦うという武士の気風が残っていた。祖父は米子藩に仕える150石取りの中上級武士、父の吉次の身分は武士だが、近江国高島郡小川村に帰農した。なぜ、侍の身分を捨てたのか。まだ、この時代は武士と農民の区別というものが不十分な時代で、刀狩り等が行われたが、日常的には、農作業をしているが、いざという戦いのときは刀を挿して出かけていくという身分が多かった。更に後の時代になると、明確に武士と農民は区別されていた。
1歳、近江国高島郡小川村に生まれる。生家に大きな藤の木があった。
8歳、祖父は、跡取りが欲しいため藤樹を養子とし米子藩へ。
10歳、伊予国(四国愛媛)の大洲藩へ移る。
中江藤樹の人格素養は、主に大洲で形成された。
11歳、儒学の「大学」と出会う、これが中江藤樹の原点となった。

資料に書かれている「明徳を明らかにする。誰にも本来備わっている徳がある。その徳を磨いていけば必ず聖人になれる。聖人とは、本当に立派になった人のことであって、それを目指す人を君子と呼びます。君子が努力を重ねると聖人になれるわけでございます。その聖人は特別な人しかなれないという思いがあった。特別な才能があって、特別な環境を与えられて、特別な努力を続けて聖人になることができる。

ところが、己に備わっている明徳を明らかにすることができれば誰もが聖人になれる。多くのまじめに学問を行う者にとっては、視界がパッと開かれるような喜びをもたらすことになるのであります。僕でもやれるんだ、私でもできるんだ。と君ならやれるんだ。あなたならできるよという一言を、尊敬する人からいただくこと。あるいは、書物や人の話から頂戴することは、とても重要なこと。(大國民讀本の養神録)

やっぱり人間みんな自分はだめだなと思う、私なんてたいしたことができない。大体人生決まっているといった、良くも悪くも諦めという気持ちを持ちやすいわけです。思い上がることも良くないが、されとて、卑下することもよろしくない。そのまじめな人間ほど過小評価し、卑下する。そういう時に「君ならできるよ」「君ならやれるよ」という一言がどれだけ励みになることか。中江藤樹は、大学という教本から受け止めた。これが数え年11歳のとき。

15歳、吾十有五にして学に志す。十五の時、祖父が亡くなり元服が行われ跡を継いで大洲藩主となりました。学問に励み、この頃からすでに講義も行っていた。

25歳、父も亡くなり一人で住む母を、伊予に迎えようとする。母にしてみれば気持ちはありがたいが、息子の足手まといになることは良くない。また、これまで生活をしてきた自分の故郷を離れることは、寂しいことから叶わなかった。それならば、藩士としての身分を捨てて母の元へ行きたいと考えた。侍として藩士という役割をもらっていることから、それを捨てて故郷に帰り、母の世話をする。今ならとても親孝行で、そういう選択もあると考えられるが、当時、藩士の身分を捨てるということは、大事な任務の放棄となってしまう。なかなか人に理解を得られることではないが、中江藤樹にとって、腹の中から沸き起こってくる思いであった。単純に母が恋しい、人恋しい、寂しいという感情であるよりも、もともと中江藤樹は、武士というよりも思想家であり、教育者であった。それが郷里に帰れといい、侍を続けていたら自分の天命を果たすことはできない。侍は他の人でもできるが、これから自分に待っている役割は、今の身分を捨てるところから与えられるものである。やはり大事なものを手に入れるためには、何かを捨てなければいけない。そういう選択がその時あったのだと思います。それは、25歳の中江藤樹にとって説明しきれるものではない。沸き起こる親孝行の「孝」という思いによって膨らんできたことは確かであります。己の人生ときちんと向き合った、しっかりと自分の人生を向き合った結果、故郷へ戻る。という選択に至った。戻ってどうなるか。というより、戻らなければいけない。そういう思いがこの時あったと考えられる。藩として母のために孝養のために藩士を辞めたいというのは、前代未聞ですから通常は、藩士のまま親孝行すればいいのです。藩としても不祥事を起こしたわけでもなく、辞めさせる理由もないわけです。藩としては、そのうち気持ちも落ち着くだろうというくらいの捉え方。結局、藩は許可しません。

とうとう27歳の時に、郷里に残した母への孝の思いから脱藩逃亡し、これは、死罪ともなる重大な違反行為を犯した。相当な沸き起こる思いの選択であった。やはり、思想家は意志強固でなければならない。若い時は自分に対して頑固すぎる厳しすぎる、自分の人生の決断に対して命を賭けるところがある。そういうところがないと、思想としても大成していかない。思想家として自分を追い込んで行った。そういう選択であったと拝察する。大洲藩としても特別なケースとして、追っ手が迫って来て捕まるということはなかった。しばらく身を潜めつつ郷里に戻っていった。

郷里の近江に戻ってからは、学問に励みます。まずしっかりと納めた学問は「易」でした。易とは、一切は変化するものの見方がベースになっている。易の漢字の語源は、小動物が移る、変化する意味。易の基本は、陰陽論にあります。陰と陽は必ず同時に存在する。陰と陽が一つになることによって存在を形成している。陰だけの存在がなければ、陽だけの存在もない。そこに働く力を陰と陽に分けながら一つのものを捉えていく。それは、変化、活動、循環でありますから、ものの動きを捉えていく学問、それが易学となります。「陽中陰あり、陰中陽あり」暑い夏でも明け方は涼しい。寒い冬でも昼過ぎは暖かい。陰陽を二元的に分けて捉えるのではなく、変化活動として捉えながら、しかも、陽中陰あり、陰中陽ありとして循環で捉える。「陰が極まれば陽に転じ、陽が極まれば陰に転ずる」陰極陽転、陽極陰転。モノの循環を総合的に捉える学問であった。藤樹先生はまず易学を納めた。

それまで、基本として学んできた朱子学は、思想の基盤にもなっているが、藤樹学として発展させていきました。それまでの学習を打ち破り、その突破口は易にありました。やはり、宇宙を捉える。天を意識する。天を意識して始めて、親孝行の孝というものがわかってくる。それが藤樹学です。そこに至るまでは、どうしても易というものが必要であった。突破口を易学において、朱子学一辺倒から脱皮することになる。次第に陽明学的思想へ向かってまいりました。

【朱子学から陽明学へ】
朱子学については、中国の宋の時代の大学者であった朱子がまとめた学問で、朱子が創造した学問というよりも、宋代の学者たちの理想を集大成していったのが、朱子の働きであった。その集大成の中に「理気二元論」がありました。
「理気二元論」の理とは、原理、理論。オウヘンは玉ギョク、磨けば磨くほど筋道が整って行く。筋が整って行くことが理論的。その筋をまとめた時に原理となります。この世界、この宇宙には、原理がある。目には見えないが、そのモノをそうさせている働きがある。目には見えないが、元になる原理がある。それが「理」です。
一方、理だけでは何も起きません。理によっていろいろなモノが変化し、また、存在することになります。その存在の元になるのが「氣」である。氣は、漢字の成り立ちを絵にすると、米を炊いた湯気が蒸気の力となって重たいものを持ち上げていきます。蒸気は透けて手で掴もうとしても熱く湿るだけです。物体として掴めない。しかし、重たいものを持ち上げる力がある。その氣というエネルギーで、この世界が構成されているのだろうと中国の昔の人が考えたのです。氣が、ぎゅっと集まると存在になり、氣が拡散すると大気や空気になる。この世界は氣で構成されている。しかし、氣だけでは、モノが成立しない。氣を働かせている元になる原理がなくてはいけない。それを「理」と呼びました。理と気で世界が成り立っているということで、理気二元論と呼ばれるものが成立したわけであります。これが朱子学の基本中の基本であります。さらに「理」でありますが、人間にとっても「理」と「氣」が働いています。
人間にとっての理を「性」と言い、人それぞれの本性のことを言い、その本性がその人を、その人らしくさせている「理」だと。このあらゆる世界に働いている原理が理。人間にとっての理が性。人間にとっての氣は、二つあって、空気呼吸と大地の氣を受け入れる食、呼吸と食事であります。それによって氣を取り入れます。さらに人間の氣としてわきまえておかなければならないことは、氣というものは雑念の元にもなりやすく、様々な欲として働いていき自分の本性を困らせることもある。これではいけないと、朱子は、自分にとって元来与えられている本性を大切にしなければならない。そのための修行が、去経と言って、つまらない欲望を抑えて生き方を厳粛にする。そうすると氣に振り回されることはなくなる。せっかく取り入れた氣をおかしな方向に使ってはいけない。究理とは一物一物の理を極める「究理」をどのように極めるのか、そのために大事なのは「清座」だと。静かな環境に身を置いて、自分が今、取り組んでいるテーマに向かって本質を極めて行く。

これは朱子が活動した時代、禅宗が中国では盛んになっておりました。みんなが座禅をして禅が広まり、それに準じて、清座を取り入れたという見方もあります。それから「内省」己を振り返るということになります。このような教えは大事だと思いますが、反面、堅苦しく思われるのも当然。理と気を分けて厳格に生きていかなくてはならない、あまりにも朱子学だけをやると、例えば、角を曲がる時も、直角に曲がる人間になってしまう。カーブを滑らかに曲がれないタイプになりかねない。また、融通が利かない、頑固、感情に乏しい、一生懸命に学問を積んでいるけどつまらない。というような人になってしまう。また、例えば、旅行に行った時、隣にいるご主人に向かって、綺麗な花よね。と言ったら、ご主人があの花は、○科の花で。と解説が始まって、まずは、綺麗でしょ。まず、綺麗であることに共感してほしいのに、いきなり解説から入ったら、一緒にいてもつまらないでしょうね。共感する人と旅行に行きたいでしょう。これが朱子学でした。

30歳、高橋ヒサと結婚します。非常に見た目は良くなかった。しかし、大変しっかりしたご婦人だった。二男一女に恵まれた。
34歳、熊沢蕃山23歳が入門しました。(やがて、熊沢蕃山としての陽明学を確立していきます。)
37歳、陽明全集を入手。やっとここで、陽明学が入ってきます。藤樹学が、朱子学の分離観を超えて、大肯定観に発展していきます。

陽明学は、朱子学の性即理ではなくて、陽明学の心即理と唱えました。
朱子からすると、「喜怒哀楽の感情に囚われてしまう心というものを軽く見た。心というものに人間は惑わされておかしくなっていく。氣に左右されやすい心を離れて、本性を見つめなさい。そのために清座をしなさい。」と教えていくのが朱子学。
 それに対して陽明学は、「人間の心を離れて本体としての理はあり得ないのだ。喜怒哀楽の感情を離れた人間などあるものか。人間の心というものを重んじるべきである。すなわち、喜怒哀楽を持っているその素直な人間性を大肯定しようではないか。」これが王陽明の陽明学の立場です。
藤樹先生が、本格的に陽明学を学ばれました。その結果、朱子学を打ち破って人間大肯定の哲学(陽明学)へと進化なさっていった。

37歳、皆さまにとって大事な後継者である淵岡山先生が入門なさりました。この淵岡山先生について次回述べることとなります。弟子には二つのタイプがある。一つは、師匠の教えをきちんと受け継いでいく人。それが淵岡山先生でした。もう一つは、師匠の教えを元に独自性を確立していく、それが熊沢蕃山であった。考えれば両方必要なんですね。熊沢蕃山は、政治家ですよ。政治にて活躍した人です。世に名が強く残ります。そういう弟子を残したことによって、中江藤樹先生の名前も、また、残ることとなるのです。

しかし、一方で、きちんと教えを続ける人が必要です。熊沢蕃山は特に門下生を養っていない。熊沢蕃山しかいなかったら、藤樹学は絶学となっていた。淵岡山先生がいらしたおかげで、藤樹学は全国24カ国に伝わり繋がっていったのです。特に伝わった場所は、江戸、伊勢、京都、九州、最も藤樹学が伝えられたのは喜多方です。これは、お世辞を言っているわけではなく歴史的な事実なんです。淵岡山先生のおかげで藤樹学が伝えられ、どれだけ偉大であったかは、次回(平成30年10月31日開催)お伝えいたしますが、今日の内容を聞いていただかないと繋がりません。

39歳、嫁のヒサが没します。
41歳、中江藤樹先生も母より先に没します。親より先に亡くなることは、それ自体が親不孝と言いますが、一つの運命といわざるえない。本当に簡単に藤樹先生の人生を述べましたが、説明上足りないところだらけであることは、ご勘弁ください。皆様方から補足を賜りたいと願う次第でございます。

【藤樹学のキーワード】 資料1ページ参照
「心学」
陽明学のことを「心学」とも言います。藤樹先生におかれましては、自己の心を正しくする学問。性即理ではなく、心が本体である、心即理が陽明学であります。本体である心を正しくする学問が心学(=陽明学)である。

「良知」
なぜ、心を正しくできるのか。それは、良知の働きであります。何が大切かを掴む働きが良知。初めからそれは備わっている。元来、孟子の言葉です。孔子が亡くなって百年経って生まれた孔子の後継者と言われている孟子という思想家がいました。孟子を最も尊んだ思想家が吉田松陰先生でありました。中国思想の中で一番激しさを持っているのが孟子の思想です。孔子の孔と孟子の孟を合わせて「孔孟の教え」とも言います。
「良知」孟子の言葉です。良知とは心の本体。人が人であることの根本。性善説に基づいています。性善説とは、人間を大肯定していること。人間というのは愚か、人間というのはつまらない、そうではなくて、人間は、素晴らしい可能性に満ちているよ、そして、君もそうなんだ。これが良知の教えです。

「皇上帝」
世界の根源的存在、人格神と言って良く、つまり観念ではなく、本当にいるんだという存在。現代科学からすると、人間の想像上の存在ということになるでしょうが、しかし、この大宇宙を発展させた根源的な力があるわけです。古事記では天之御中主神、西洋の見方ではサムシンググレート、この宇宙の根源的な力があると多くの物理学者が意識するわけです。何かなければおかしい、アインシュタイン博士も宇宙の中心的位置があることを述べています。研究すれば研究するほど根源的な存在を意識するようになる。そこに皇上帝に繋がる見方があると考えます。本当にその様な力があるとすれば、それは実在である。その実在たる世界の根源に対して我々はどう向き合うか、自分の大本である。だから、自分と繋がっている天人合一だと、仏教的に言えば、梵我一如(ぼんがいちにょ)となるわけでございます。一体であると、我々を見守って下さっている、それは、この世界の根源だから。そこで、一人ひとりの善悪行為を監視してくれている尊い実在である。と藤樹先生は教えられたわけであります。また、言葉を変えて「太虚」大根源でありますから、まだ何も起こっていない太虚。「大乙神」天に対する信仰であって、天に対する信仰を庶民に広められたわけでございます。信仰という観点から申し上げますと、宗教的色彩が濃い。しかし、宗教とは盲信になってはいけませんが、やはり大事な人間を支える基本であります。いろいろなこと全部は、わからないけど私はそう思う。私は信じている。これが人生を支える基本となるわけでございます。もちろん、科学的に研究してモノの原理を極めていく。これも大事なことですが、今の科学で世界のどれくらいが解明されたか、まだ一部とも言われています。迷信はいけませんが、全てが科学で証明されているわけではない。細胞一個できないわけですから。そして、非科学は迷信ですが、まだ、解明されていない未科学分野がほとんどだとすれば、我々は、素直な心で受け入れている。疑っても信じてもいいのですが、でも、信じるようにしよう。やはり信じた方が、幸せになれることというのが多いことかと思います。研究において疑問は大事、しかし、信ずる事はそれに負けないくらい大事。信じることがなければ何もできない。食事をする際に、毒が入っていないか。とか、今日あたり何か盛られるのではないか。と疑っていたらきりがないですよ。やはり、基本的に信じなかったら生きていけないわけです。人生は信じることによって成り立っています。
だから、藤樹先生は、まず、天を信じよう。天が我々を守ってくれているのだと、そこを肯定しなくて、どうやってあなたの人生これから開かれていくの。そういう教えを述べて下さったのだと思います。

「孝」という一文字に集約
藤樹先生の信仰は「孝」という一文字に集約されて参ります。父母への孝養、先祖への崇敬、子や子孫を敬愛する。皇上帝への信心。普通の親孝行からしたら随分と孝の意味が広いとお気づきでしょう。両親だけにとどまらないのです。ずっと辿っていく先祖、また、子や子孫も親である。自分を通して、親が子や孫へと生まれ変わっていく。子や孫に対する敬愛。そして、皇上帝への信心、全ての根本は孝である。全てを貫いているのが孝である。自分を慈しむ事も孝である。その孝の実践が、敬愛である。父母に対しても先祖に対しても、子や子孫に対しても、己に対してすら敬愛、それが孝の実践である。全ては繋がっていて、万物一体となるわけでございます。したがって、孝は、万物に内在する根本原理である。まさに、孝一元論というのが藤樹先生の教えの根源であったということになります。藤樹先生がお説きになる時の孝とは、狭い意味の孝にとどまらないのです。あらゆるモノを慈しむ。あらゆるモノを肯定し、あらゆるモノを大切にする。あらゆるモノを持っている価値を認め引き出してくる、それが孝ということになろうかと思います。

「時・処・位(じ・しょ・い)」を尊ぶ
「時」は、時期タイミング。「処」は、場所。「位」は、身分、通すべきスジ。昔は、身分というものがありましたし、今でも、何かの活動をする時に与えられた役職、立場に応じて勤めなければいけないという責任があります。やはり、組織で動くという場合は、勝手にやってはいけないので、通すべきスジが当然あります。それが「位」。
これらは、孝を実践すべき際に、考慮すべき条件である。これは全て中庸(極端な生き方をせず穏当なこと。片寄らず中正)程よさバランス、全体を捉えた中で何が今最もバランスが取れている在り方か。それが中庸。中庸の実践において時・処・位を基本にしたことを教えていかれた。

ここまでが理屈を説明させていただきました。

ここからは、エピソードについて触れさせていただきます。

【「加賀の飛脚」の話と「了佐への教育」】
藤樹先生の逸話の中で、最も有名なのが加賀の飛脚の話であります。
高柳俊哉 著 「中江藤樹の生涯と思想」からP195

藤樹の教育の成果として現れた徳化についての逸話は多い。例えば熊沢蕃山の入門のきっかけとなった「加賀の飛脚」の話は以下のように記されているものを訳す。
飛脚はモノも運んでいたが、お金も運んだわけです。雇い主に依頼され京まで二百両運ぶ行程だった。飛脚は京に向かう途中、近江河原市より機敏な馬を雇って榎木の宿まで行き泊まりました。馬方は、仕事が終わって帰ってから、馬の裾を洗った。そこで、鞍を外したら、その下から財布が出てきた。これは飛脚が隠しておいた財布でありました。これは、飛脚が馬方をも信用していなかった。もし、飛脚が二百両持っていると言ったら盗賊に姿を変えるかもしれない。そこで飛脚は悟られないように鞍の下に隠したことを忘れて、馬方と馬を帰したことに気づかなかったのです。
馬方は、驚きました。こんな大金。これは、今しがたの飛脚が忘れたものだろうと、飛脚が泊まっている宿まで行って顔を合わせた。本当に飛脚が忘れたものか、よく聞いて確認し相違がなかった。飛脚は二百両を失くしてしまった、もう人生終わったと思っていた。しかも罰は親族にも及ぶ大変なことをしてしまい全く生きた心地はしなかった。そして、返してもらえるということは、あり得ない。とまで思っていたところに、馬方が来たものだから、その恩に礼金を払おうと思った。しかし、馬方は礼金を断りました。さらに飛脚は、馬方に礼金を受け取ってもらいたいと十五両取出し与えたが受け取らない。十両、五両、三両と減らし、ついに二歩としてまで礼金の受取りを求めたが受け取らない。
馬方はついに、それではここまで駆けつけた賃金として二百文を申し出て、それで酒を買い宿の人たちに振る舞った。感激に堪えかねた飛脚は馬方にあなたは、いかなる方かと尋ねると、自分は学問のある者ではないが、高島郡小川村に与右衛門(藤樹の幼名)という人がいらして夜毎講釈をしていらっしゃる。私も時折その教えを伺っているので「孝を尽すべし。主人は大切にするものなり、人の物は取らぬことなり、無理非道は行うべからず。」等を聞き及んでいる。今回のお金に関しても、自分の物ではないから取るべき理由が無いと心得たまでのこと。と言い捨てて帰った。
 後にこの話を京の宿で偶然に、熊沢蕃山が聞き、小川村の藤樹を訪ね、入門を申し出たというのである。これは、藤樹没後約150年後に収録された話であるが、藤樹の感化が及んでいたことを示している。現代は教育が広く細かく行き渡っているが、このような成果を果たしているだろうか。こういう人格の力でどこまで弟子や生徒を教えているだろうか。知識は教えられる。良い点を採らせることはできる。しかし、良い点を採れば幸せになれるかどうかですよね。

ここからは、京都の花街のお茶屋さんを営むお母さんから聞いた話です。最近は中学生等が修学旅行で京都に行った際、芸舞妓さんの唄や踊りを鑑賞する体験をして、そのまま自分も舞妓さんになりたいという娘が増えているそうですが、修行は厳しいので長く持つ娘は少ないそうです。お母さん曰く「学校時代、勉強がようできた娘は、長続きしません。要領ばかり身につけています。どういう態度を取ったら大人が喜ぶかという要領。どう振る舞えば早くできるかという要領。そんなものは、ここでは全くあきません。そうかと言って、勉強ができないのも困ります。ほどぼどにできて、ずるさの無い娘、手を抜かない娘、つまらない言い訳はしない娘、そういう娘が伸びていく。」

結局、いい点を採らせる、それはいい学校に行った方がいいでしょう。いい点採るために夢中になる時期もあっていいでしょう。しかし、それだけで、世に出て通用すると思ったら大間違い。むしろ、学生時代上手くいったことが社会に出た時に、邪魔になることがありうるのです。そう考えた時に、人格の力で教えたことがどれだけ大事か。

41歳で亡くなった藤樹先生の感化力が、150年経った後に熊沢蕃山が入門した話が語り継がれ収録された。熊沢蕃山には、特別後継者がいるわけではなかったわけですが、話が伝わっていった。

【大野了佐の話】
了佐は、のろまでウスノロな、デキの悪い弟子だった。しかし、藤樹先生は見捨てたりはしなかった。人間の良知、明徳を信じる、藤樹は31歳の時、了佐の教育に全力を尽くした。それは、人間をどこまでも信じ、努力を惜しまず、能力を見切らないという姿勢で貫かれていた。そこで一部現代教育にも欠けているものを見出すこともできる。翁問答で、「人間は皆、善ばかりにして、悪なき本来の面目を良く観念すべし。」どんな悪者にも善性がある、どうしようもない悪人はいるかもしれないが、極めて少ない。どんな人にも善性がある。
「愚痴不肖と言えど良知良能あり」万物一体の仁愛を説くところを自ら実践した。教える側が見限った瞬間、その生徒は終わります。了佐を教えることで、藤樹自身も教育した。年譜にもこの個性教育の苦労は詳しく記されている。

このことから、教育者たる藤樹の姿勢が読み取れる。周りからしたら、よく教えるな。了佐によく教えることは大変だと嘆いていた。

藤樹先生は、私が了佐に教えるといったって、了佐が努力してくれなければ、どうにもならない。たしかに了佐はウスノロだろう、しかし、励み努めることにおいて、了佐の力は甚だ素晴らしく見事であった。

全集五巻の中の一巻に相当する580ページもの膨大な「捷径医筌」シヨウケイイセン、ショウケイとは、目的地にたどり着く道。イは医学、センとは、竹を編んだ魚を捕る道具。この道を通っていったら必ず医学を掴み取ることができる書を記し、了佐に講義を続けた。そして、門人たちに、了佐の努力を見習うべきだと説く。ここに教育の極み、並びに各人の個性を尊重する藤樹の人間性を垣間見ることができる。藤樹先生は、決して門人を追い詰めたり、責めたりはしない。個々の長所や志を大切にしたのである。そういう藤樹先生ですから後々エピソードが伝わります。

ある年、一人の武士が小川村の近くを通る時に藤樹の墓を訪ねようと、畑を耕している農夫に道を聞きました。すると農夫は、旅のお方にはわかりにくいでしょうから、ご案内いたしますと言って、先へ立って行きました。途中で自分の家に立ち寄り着物を着替え、羽織まで着てきました。その武士は心中で自分を敬ってこんなに丁寧にするのだろうかと思っていました。藤樹の墓に着いた時に、農夫は、生垣をかき分けて墓の正面へ通しました。自分は生垣の外で膝まずきうやうやしく拝みました。その様子を見て武士は驚き、農夫が着物を着替えて来たのは、まったく藤樹を敬うためであったと気がついて、農夫に「藤樹先生の家来でもあったのか。」と聞きますと、農夫は「いえ、そうではありませんが、この村には、一人として先生の御恩を受けない者はございません。私の父母も自分たちが人間の道をわきまえ知ったのは、先生のおかげであるから、決して先生の御恩を忘れてはならない。」と、常々私に申していました。その武士は、初め、ただ藤樹の墓を見て行こうというくらいにしか考えていなかったのでしたが、農夫の話を聞いて、深く心に恥、丁寧に墓を拝んで行きました。

これが、かつて第五期 国定修身教科書として、初等科修身三年生の「近江聖人」として取り上げられていたわけでございます。

こうして、本人が亡くなった後、数年もしたら誰も覚えていないということが、親しい人以外は通常だと思いますが、こうして没後も永い間、今も藤樹先生が生きておられるのと同じ気持ちで弟子たちが先生を敬っていた。本当に素晴らしい思想家であった。かつては、全国に藤樹先生を慕い、後を継ぐ弟子たちがおられた。今は、喜多方に残るのみとなった。研究者として中江藤樹を調べる方はおられるでしょう。しかし、中江藤樹という思想家の全人格を受け止め、そして、腹の底からその魂を受け継がんとする門人が今、日本中探してどこに残っているのか?それは、まさしく、会津喜多方である。

私自身、25年続く会津の立志セミナーですが、第26期の2回目である今回は、一つの覚悟を持って伺わせていただいている次第であります。

<<後半>>

【中江藤樹著の翁問答(岩波文庫 加藤盛一校註)】
資料3枚を準備させていただきましたが、その3枚を選ぶのにも相当選んでいます。

<<52頁>>「孝」という徳は、藤樹学によれば、天帝の徳ということになる。
従いまして、天地の大徳と人間の心が相通じ合うこと。皇上帝と己が結ばれることが「愛敬」の二字に結論づけられる。「敬」とは、上を敬い、下を軽んじたり、あなどらないことが義理である。「孝」とは、孝一元論という考え方がありました。孝とは、あらゆるモノに通じる考え方。やはり、物事を捉えたり説明する時に、一個に集約するというのは大事なこと。一言で言ったら何なのか。
私の師匠の松下幸之助は、よく問いかけてくれました。「君、それな一言で言ったら何や?」「君、大学出ておったな、何やっておったのだ。」「経済です。」「ほな聞くけどな、その経済っちゅうもんは、一言で言ったら何や?」一言で言うことなどは、やったこともなかった。松下幸之助は、余分な言葉が人間は多い、特に勉強のできた人ほど無駄な言葉が多い。それだけ知っている君の言葉の中で、君を本当に作っているのは、何の言葉なのだ。どの言葉が君なのだ。若い時ほど、あれこれ説明する。また、歳をとったらとったで、評論はできる。では、自分とは何なのか。と言うことになってくる。それを藤樹先生は、一言で「孝である。」と言い、万人にとって孝が一番基本だと言われたわけです。

そして「愛敬」とはどういうことか。五倫で言えば、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の5つの関係の五倫で言えば、ちゃんと、目下の者にも節度をもって、礼儀正しく接する。目下の者に対して丁寧かどうか。だから、パワハラなんか無かったわけですよね。その人が立派かどうかを見る時に、自分より立場が下で強く出られる相手に対して、どれだけ丁寧かどうか。多少言葉遣いは砕けた言い方になったとしても、心根として目上目下関係なく相手に対して丁寧であるか。大体、そういうところを見るとちゃんとしているかどうかがわかります。目上や強い相手には、媚びへつらい、弱いものに対しては居丈高(いたけだか)となって偉そうになる人を役職につけたりすると、組織全体を乱す大本となることが多く勝手なことをやりだす、自分くらい偉い人間はいないと思いこんでいるタイプということになります。

二心なく君を愛敬することを「忠」
礼儀正しく臣下を愛敬することを「仁」
よく教えて子を愛敬することを「慈」
弟の立場の者が、兄に当たる者に愛敬をもって接することを「悌」
兄が弟を尊び慈しみ守ることを「恵」
正しき節をまもりて夫を愛敬する「順」
義をまもって妻を愛敬することを「和」
偽りなく朋友を愛敬することを「信」

藤樹先生の教えは、勉強している時だけが勉強ではない。日常生活すべてが、研鑽であり堅苦しいことを言うのではなく、学校だけでなく、今いるところが成長の機会である。

禅寺で言えば、座禅している時だけが修行ではなく、食事をいただく時も、風呂に入る時も、寝る時も、作業する時も、全て修行であります。あの道元禅師は、中国に留学した際、寺でしいたけを干している修行僧がいて、せっかく禅寺で修行しているのに、学問に励むこともなく、座禅に努めるわけでもなく、ひたすらしいたけを干したり、食事を作ったりしている。あなたはそれでいいのですか。と聞いたら、その僧は「何を言うか。これが私の修行である」と言った。道元禅師でさえも、昔は頭でっかちだったのだと思います。○○やらなかったら勉強にならないとか、これを外したら修行ではない。という考えで捉えていた。

藤樹先生が登場する時代になると、どう生きるのか、何のために生きるのか。皇上帝と繋がることで、天と繋がって自分は存在し、天と繋がる成すべき役割「天命」がある!そこに目覚めれば、何をしていても勉強であり、稽古であり勉強であり修行である。という考えになる。しかし、そこをわかっていなければ、その後は何をやっていても、本当の意味で、己の成長に結ばれていかない。

そのことを、藤樹先生は、噛み砕いて、孝忠仁悌恵順和信と説明なさった。

<<71頁>>「子孫への教育、それによる家の発展について」
誰だって自分の代で終わりたくはありません。後へ後へと栄えていきたい。子や孫が幸せになってもらいたい。みんなそう思っておりますよね。それについて藤樹先生はどういうことを教えてくださったか。
「孝」というものを忘れてしまえば、一旦は栄えても必ず一代、二代のうちに子孫は絶えてしまうもの。例え絶滅せざれども、あるに甲斐なき(存在が意味ないものになって)先祖から生き続けてきた本生、先祖から受けた一家としての本質が、子がいてもちっとも親や先祖の思いを受け継いでいなければ、子がいないのと同じである。

ここで余談ですが、文明論の師匠である村山節先生は「○○家」の研究もされました。栄えた家も徳がなければ六代で終わる。初代は苦労して頑張り、二代目はその親である初代を見て頑張る、三代目が一つの完成期を迎える。しかし、家徳が欠けると三代目以降傾き六代で滅びていく。永きにわたり続く家庭は、家徳がある。この大和川酒造の家徳は、現在9代目「酒業報國」酒の生業で国に報いる。また、80代続く神主様の家徳は、神社を守るところにあった。

永きにわたり続く家は、村が困った時に、蔵を開けて村人を助けた。とか、ここに橋が渡すことができれば皆が助かるのに。そういう時に率先して資金を提供した。とか、何かの時に周りの人を助けてきた。助けてきたことが徳となって、子孫が絶えそうになった時、周囲が放っておかない。御宅が無ければこの村はないのだから。あなたの御宅が終わるということは、ふるさと全体の損失である。なんとかいないものか知恵をいただき、遠くの血縁から養子を迎え、家をたたむことなくその後も続いていった。それは、徳の働きであるというわけです。初代、二代、三代と頑張っても、徳がなければ、あとは落ちていく。全く駄目であれば、三代目で終わる。二代目はまだ初代の苦労を見ているからいい。三代目になると全くお坊ちゃま、お嬢ちゃま、良い面でお坊ちゃま、お嬢ちゃまであればいいが、苦労が伝わらない、努力が伝わらない。そうすると三代目で終わってしまう。そもそも六代もつことが凄いんです。家徳を進める。

そして、その徳を、天に対しても、配偶者に対しても、目上の人にも、目下にも、兄弟にも、友人に対しても敬愛であろう。つまり「孝」の実践で積まれていくのが「徳」である。

<<116頁>>「学問と政治はひとつだ」
天下国家を治むる政(まつりごと)は明徳神通妙用(めいとくじんつうみょうよう)の要領なので、政は明徳を明らかにする学問、学問は天下国家を治むる政(まつりごと)である。
 明徳とは、立派な徳性。明徳神通妙用とは、立派な徳性である明徳は、神に通じる非常に素晴らしいはたらき。のこと。
天下国家を治めるのは立派な徳性でなければならない。立派な徳性に基づく政治でなければならない。だから、政治は、立派な徳性を明らかにする学問である。学問は天下国家を治むる政である。よって、学問と政治は一つである。
 学問を積んだら良い政治が行われて当然。
 学問に励めば立派な政治家になれる。
 そして、政治は学問そのものである。学問を離れて政治はない。だから、一つなんだ。私は、まさにこの考えで、林英臣政経塾と弟子が名付けてくれた政治家塾を13年間やってきた次第です。政治家塾を起こす前は、色々、志教育や社会教育活動の類いを行いまして、それを行う時に、志の高い地方議員の方々に集まっていただいて協議会などを催した。しかし、良いこと言ってくれるし、何かお願い事をしたら頼りになるわけですが、私の中で何か違うなというものが沸き起こったわけです。集まってくれてはいるけど、同志になっていない。立派なことは言うが、本気で言っていない。この人たちとは協力者にはなっても根本から日本を救う、原点から日本の国を変えていこう、その同志と呼ぶには、かなり違うなと思った。せっかく地元では、頑張ってもらっている政治家の皆さまに集まってはいただいたが、根本から日本を救う時にどこまで一緒に人生を賭けてくれるか。どうしたらいいのか、何が足りないのか、それは、世界観や歴史観、国家観と言う哲学思想が相通じ合っていない。じゃ、どうしたらいいか、それは、学問だ。学問からやり直していかなければらちがあかない。その時、林英臣先生は40半ばを超えていた。まだ時間はあるな、日本にも自分にも、一からやってみよう。手間はかかるだろう。果たして何年かかるかはやってみなければわからないが、共通の学問を積んで人生の基盤が揃ってきて、そうして志が相通じ合えば、きっと日本を変えられる。天は自分にそれをやらせようとしているんだと、よし、世界を捉える大局は、文明論である。日本の原点は大和言葉をもってつかみ合って行こう。そして、志を立てるのは東洋思想、武士道だ。そう言うところから、やり直した。一からやり直すしかない。そう思ったわけです。

 

まさに、そうしたことを学ばせていただくと、藤樹先生のお言葉として、学問のところ、「天下国家を治める政は明徳神通妙用の要領にて候ゆえに、政は明徳を明らかにする学問、学問は、天下国家を治める政である。学問がちゃんとしないと、人は育たない。自分も養われない。テストのために学問があるのではない。テストはプロセスですよ。

<<253頁>>「人間が生きていく上で、一番に願い求めるべきものは」
「人間が生きていく上で、一番に願い求めるべきものはなんでしょうか。それは、心の安定と喜び。第一に捨てたいものは何でしょうか。それは、心の痛みです。では、どうやって苦しみを取り去って楽しみを求め得たらいいんでしょうか。それは、勉強だよ。」と言っています。
大体、仏教も元来は学問なのです。学問として仏教を学んで、そして、考え方を身につけて、考え方を確立することによって、迷いが無くなる。迷いが無くなるから安楽となる。それが元来の仏教です。仏教というのは元来、哲学であり学問なのです。
 なぜ、学問で楽になるのか。もともと人間の心の本体は、安楽でした。その証拠に、まだ幼い頃の苦悩のない様子を見て、子どもは仏だと、生まれたままが仏だと。生まれた時は何も無いのではなくて、生まれた時にすでに備わっている人間の本生(ほんせい)ということになる。もともと、素直さがあり、何の苦もなく幸せであった。それが成長するにつけ、だんだん苦しい人生になっていくとすれば、あなたの中にある、足りなさを満たす欲、名誉や利益にとらわれる心とか、人が自分をどう見ているかを気にする。少しは気にしなければいけないけれども、過度に気にする。そのようなこと一つ一つ、自分が作っている苦であるというわけです。
朱子学よりも陽明学の方が、はるかに生まれたままの人間の心を尊んでいます。藤樹先生は、学問を積めば積むほど、年々幼きわらべの心に戻って行かれました。若くしてこの世を去られたけれども、藤樹先生は、幼子の心にどんどん近づかれた。

<<254頁>>「苦楽は境遇にはなく、心にある」
みんな人は、こんな心得を持っていますよね。貧乏で働くのに苦労する。今、先生は、苦楽は境遇には無く、心にあると言いましたよね。
そういう心得が、すでに平凡な意見で、情けない惑いなのだ。人から良く思われたいのであれば、その迷いは深く実利をわきまえざる意見であって、見かけのための人生だ。徳性を立派にして行かないと、習慣に染まり欲ばかりとなってしまう。つまり「身分が高くなって豊かになれば楽だが、貧乏で働くのは苦しいではないか。なぜ、心が大切なんて言えるのだ。」と食ってかかられた。
良く見て見なさい。あなたの言う幸せだと思われる地位を得てお金をたくさん蓄えた人が本当に幸せか。もちろん地位を得て働くのは結構、お金も必要、だけど本当にそれで幸せになっているか。むしろ、何かを憂ば憂えるほど苦しみとか、失くした時の心配が増すばかりではないか。

<<255頁>>「楽しみを受け止める心」
心が確立しておれば、天子となっても、楽しいだろうし、一庶民であっても楽しみが減ることはない。楽しみを受け止める心がなければ、どうなっても苦しみが増すばかりであろう。
 立場に就いたら就いたで、やろう。頑張るぞ。これから活躍できて楽しいぞ。また、その地位が失われたら、それはそれで、今まで勉強できなかったことを勉強していこう。これはこれで普段やれなかったことをやれるチャンスだ。少し時間の余裕ができれば、今まであまり家族サービスもやっていなかったが、少し妻や子どもたちに寂しい思いをさせてしまった罪滅ぼしのチャンスともなるだろう。そのように考えておけば、どんなところからも、喜びや幸せを私たちは受け止めることができるはずだ。そんな心が育まれれば。だから、心が本体なんだ、心即理に戻るわけです。本当に心即理となれば、立場とか名誉とか地位とか金とか、そんなところに幸せを感じたり、憂えたりするのではなく、もっと根源的なところに己の幸せを確立できる。
 しっかりと学問を積み、実理(体験を通して得た道理・理論)を身につければ、苦楽というのは心にあるから、結局、心の持ち方にかかっており、いかにして私たち一人ひとりが己を確立していくか。それも朱子学のような堅苦しさではなくて、陽明学の柔軟さを持って、しかも、ただの王陽明の陽明学だけではなく、日本陽明学と呼ぶのもまだ、藤樹学を説明しきったことにはならないことが、私自身(林英臣)自身良くわかりました。
おそらく、藤樹学の素晴らしさは、現代日本人がまだ気づいていない日本人を覚醒させ本来の日本人に戻し、しかも、人類として人間として成長させるための学問であり、哲理が藤樹学である。そこに私(林英臣)気づかせていただきました。本日は、そこまでお話をして、そのかけがえのない藤樹学が、いかにして会津喜多方の地に伝えられ、それを皆さま方が、数百年に渡って受け継がれてきたかということを次回、皆さまに魂をもって語らせていただきたく、私は今新たに覚悟を据え直した次第です。本日のご静聴誠にありがとうございました。

平成30年10月21日

文責 會津聖賢塾 代表 江花圭司

かけがえのない藤樹学が、いかにして会津喜多方の地に伝えられ、それを皆さま方が、数百年に渡って受け継がれてきたかということを次回、「会津藤樹学の起源と展開」~なぜ中江藤樹の思想が喜多方で広まったのか?を、皆さまに魂をもって語らせていただきます。

平成30年10月21日

會津聖賢塾 江花圭司

 

【次回のご案内】
☆第26期 第3回 會津聖賢塾立志セミナー
日時:10月31日(水)午後6時半~9時
主催:會津聖賢塾
(代表・江花圭司さん、林塾7期生、喜多方市議会議員)

「会津藤樹学の起源と展開」
~なぜ中江藤樹の思想が喜多方で広まったのか?

会場:大和川酒造
参加費:各回2000円
連絡先:090・7323・3314(江花さん)

【お問合せ&お申込みは】
下記の問合せフォームからどうぞ。
https://ebanakeiji.velostyle.net/contact/
☆米沢綜學塾 12月18日(火)午後6時30分~9時
「松下幸之助塾長の遺言」4回シリーズの第2回
国家百年の計を立てよ!
「無税国家」と「新国土創成」は政経塾の二本柱 他
雑誌記者「これはと思う若者は来ましたか?」
松下塾長「うん、おった。これは楽しみや」
深く頷きながら、松下塾長は林の名を挙げた。
それから40年近くが経過しようとしている今、松下塾長が一番言いたかったことや、
塾生に託した遺言について、直弟子・林英臣(松下政経塾1期生)が当時の塾長講義録
を基に説き明かす! 国難を乗り越えるヒントが、きっとここにある!
会場:置賜総合文化センター 後援:米沢市教育委員会
お申込:fax0238-21-4185 (相田光照)