八重も喜多方市塩川町に住んでいた!!

金戒光明寺 新島八重、林平馬、山川健次郎・・・
金戒光明寺 新島八重、林平馬、山川健次郎・・・

会津人の精神を知る上でも貴重な資料が発見されました。
新島八重、旧姓山本八重が塩川町に住んでいた!
貴重な避難者名簿が発見。

塩川町から明治になってから日本で最初というものが何件か出ている。
例えば、郵便局や丸通など。。

戊辰戦争から会津の15歳未満の子どもと65歳以上の高齢者を残して、約15,000人が斗南藩へ移住させられました。
その降伏から斗南移住までの一年半から二年にわたって次の村別に会津藩士の家族が住んでいたようです。

1.149家族 会津若松市御山地区 みしらず柿(献上柿)で有名です。
2.107家族 喜多方市塩川町 塩川宿として日本一の人口密度がありました。
3.78家族 会津坂下町 越後街道沿いの賑わいのあったまち。

http://www.minyu-net.com/news/news/FM20170103-138838.php

以下、福島民友新聞社より抜粋

史料は冊子2冊。村名と当主である藩士の名、家族の人数が書かれている。降伏から斗南移住までの1年半~2年にわたり、352の村に分かれて暮らしていたとみられる。村別の家族数で多いのは〈1〉御山村(現在の会津若松市御山地区)149家族〈2〉塩川村(現喜多方市塩川町)107家族〈3〉坂下村(現会津坂下町)78家族だった。

鶴ケ城で男装して戦った八重は、戊辰戦争後から70年に山形県米沢市に住むまで、その動向は不明だった。史料では、八重の最初の夫で、会津藩校「日新館」の教授だった川崎尚之助の名があり、「塩川村 川崎尚之助 2人」と記述。さらに実家の山本家は「塩川村 山本権八 5人」とある。このことから八重は母親らと現喜多方市塩川町に住んでいたとみられる。